ミサイル打線の締めはこの人、葛城隆雄

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     葛城隆雄(かつらぎ・たかお)
    1936年生まれ
    毎日オリオンズ ー 大毎オリオンズ(1955〜’63年)/中日ドラゴンズ(’64〜’69年)/阪神タイガース(’70年)



    打点王2回、最多安打2回、ベストナイン2回、オールスターゲーム出場は5回、現役16年で通算1745安打、174本塁打、860打点。
    高卒新人ながら1年目から34試合に出場し、2年目の1956年にはショートのレギュラーに定着し、毎日、大毎で主に遊撃手、三塁手として活躍した。
    ’57年8月27日、対南海戦ではサイクル安打も記録している



    ’58、’59年と2年連続で打点王を獲得している葛城でありますが、’58年のタイトル争いは熾烈でありました。最終戦の最終打席を迎えたところで中西太(西鉄)とタイの87打点。もちろんこの時点でタイトルの獲得は決まっていたのですが、この最終打席に葛城はなんと本塁打を放ったのであります。ガックリしたのは首位打者と本塁打のタイトル獲得を既に決めていた中西、戦後初の三冠王がこの1球で幻と消えたのでありました。


    このメンコ、あ、あ、足が……。ちょ、ちょっと〜! 心霊写真みたいになってるんですけど〜!

    「ミサイル打線」の初代は2リーグ分裂時に発足した毎日オリオンズが阪神から主力選手を引き抜き構成されたものでした。呉、別当、三宅、土井垣、本堂らのラインナップで、パ・リーグ初代王者に。その後徐々にメンバーは替わり、’50年代後半になると2番・田宮、3番・榎本、4番山内、5番・葛城の強力「ミサイル打線」が完成。この打線で’60年には10年ぶりにパ・リーグを制しました。


    というわけで、遅ればせながらお報せいたしますと、12月21日は葛城隆雄74回目の誕生日でありました。


    「和製ディマジオ」小鶴誠

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      小鶴誠(こづる・まこと)
      1922年生まれ
      名古屋軍 ー 中部日本軍 ー 中部日本ドラゴンズ(1942〜’43年、’46〜’47年)/急映フライヤーズ(’48年)/大映スターズ(’49年)/松竹ロビンス(’50〜’52年)/広島カープ(’53〜’58年)
      1980年野球殿堂入り
      2003年没(80歳)



      第2次世界大戦を挟んで4年間在籍した名古屋(現・中日)では目立った活躍はなかったが、1948年に急映に移籍すると初めて3割を超え(.305)、翌年は大映に移籍して首位打者(.361)を獲得。この飛躍は打撃フォームを「ゴルフスイング打法」に変えたことと、使用球が飛ぶボール「ラビットボール」になったことが重なった結果だと言われております。

      しかし、なんといっても2リーグ分裂時に松竹に移籍した’50年です。この年にスポットを当てなければ小鶴を語ることはできません。というか、ほぼこのシーズンに集約されております。
      この年に打ち立て、シーズン記録として残っているものは、最多得点(143得点)、最多打点(161打点)、最多塁打(376塁打)、最多長打(85本)。そして本塁打は球界初の50本塁打越えとなる51本塁打。「水爆打線」の中核としてセ・リーグ初年度優勝に貢献しました。



      風貌、バッティングフォームが似ていることから「和製ディマジオ」と呼ばれていた小鶴。このブロマイドを見ると、確かに似ております。ポイントはフォロースルーでの腰のひねりですな。



      このダイカットのメンコは顔も似ているし色彩、状態ともに良し。お気に入りの一枚であります。



      これは当時はやりの画風ではありますが、まったく似ておりませんね。文字サシカエであらゆる選手に対応できる顔立ちとなっております。



      これは’49年10月に来日したサンフランシスコ・シールズと対戦した「オール日本」の文字が。このときの主な全日本メンバーを挙げると、
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      監督:藤本定(大映)
      投手:中尾、藤本英、別所(巨人)、スタルヒン(大映)、武末(南海)、天保(阪急)
      捕手:土井垣(阪神)、筒井(南海)
      内野手:川上、白石、千葉(巨人)、杉浦、西澤(中日)、藤村富(阪神)、飯田徳、山本〈鶴岡〉(南海)
      外野手:青田、平山(巨人)、金田正泰、別当(阪神)、小鶴(大映)、大下(東急)
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      うーん、ほれぼれする素晴らしいメンバーだ。

      というわけで、遅ればせながら申し上げますと、今月12月17日は小鶴誠が1922年に生まれた日でありました。


      「焼け野原に虹を架けた青バット」大下弘

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        大下弘(おおした・ひろし)
        1922年生まれ
        セネタース ー 東急フライヤーズ ー急映フライヤーズ ー東急フライヤーズ(1946〜’51年)/西鉄ライオンズ(’52〜’59年)
        1979年没(56歳)
        1980年野球殿堂入り



        首位打者3回、本塁打王3回、最多安打1回MVP1回、現役14年で通算1667安打、201本塁打、861打点。

        大下というと、豪快に遊んだというエピソードをよく聞きますが、「大下弘 虹の生涯 辺見じゅん著」の中で、初めて遊廓に連れていってもらった新人時代の稲尾和久が、遊女に次のように言われたという。
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        「大下さんの三つの教えいうのん、知ってはりますか」
        「知らんばい」
        稲尾が答えると、相方はその三ヶ条を教えてくれた。
        一、素人の女性とは結婚する気がなかったら、絶対してはいけないこと。
        二、遊廓では絶対お金を払うこと。
        三、女性から絶対お金をもらわないこと。
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        「遊廓では絶対お金を払うこと」ってところがさすがスターですな。一般人は払わないと言ったらどうなることか。

        一度、予定をすっぽかして遊廓に篭っていたところを、妻の鐡子に踏み込まれたことがあるらしい。そのとき鐡子は自分より随分年上の女と布団にいる大下に、
        「よくもこんなおばあさんと……」
        と言って、平手を食らわしたという。
        大下弘、熟女好き。



        大下のあだ名は「ポンちゃん」、「ポン助」。これは、終戦直後の明治大学での練習中、大下の打球があまりに高く、遠くまで飛ぶのを見た先輩が、
        「あんまりポンポンとばすな。ボールがなくなるぞ」
        と言ったからという説や、「大下の打球が“ポンポン砲”といわれた英国の戦艦、プリンス・オブ・ウェールズの対空砲のように高く、遠くに飛んだから」という説がある。
        また、「大金を湯水のごとく“ポンポン”使ったから」というものから、「麻雀ですぐにポンをするから」や「京都の花街“先斗町”に入りびたっていたから」というものまで諸説あるようです。



        “赤バット”の川上、“青バット”の大下と並び称されるが、川上は戦前の1940年に一ヶ月だけ小豆色の“赤バット”を使っており、それを憶えていた鈴木惣太郎(日本野球連盟の副会長)が、ペナントレースを盛り上げようと、’48年のシーズン前に大下に“青バット”を提案。
        これは、当時流行っていた「リンゴの歌」の歌詞がヒントと言われている。
        「赤いリンゴにくちびる寄せて 黙ってみている青い空」
        川上も、これに対抗するかたちで、“青バット”登場の次の試合から、“赤バット”を復活させている。



        これはフライヤーズ時代ですから、20代の頃のメンコですが、目尻のシワとほうれい線が随分目立ちますねぇ。風格漂いまくってます。



        “赤バット”川上と共に収まるアンカットのメンコ。
        左下「殊勲賞のガチョウ」が味わい深い。



        これもスター選手を集めたアンカット版ですが、なんと大下が右打ちに〜! 間違えちゃったんだね。


        というわけで、先週12月15日は1922年に大下弘が生まれた日でありました。


        最後に、「大下弘 虹の生涯」の最後に記されている一文を紹介いたします。
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        日本の野球の打撃人を五人あげるとすれば、
         川上、大下、中西、長嶋、王。
        三人にしぼるとすれば、
         大下、中西、長嶋。
        そして、たった一人選ぶとすれば、
         大下弘。




        「ザトペック投法」村山実

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          村山実(むらやま・みのる)
          1936年生まれ
          大阪タイガース ー 阪神タイガース(1959〜’72年)
          1993年野球殿堂入り
          1998年没(61歳)



          藤村富美男から引き継ぎ「二代目ミスター・タイガース」の称号を持つ。
          MVP1回、沢村賞3回、最多勝2回、最優秀防御率3回、現役14年間で通算222勝147敗。



          関西大学で上田利治(後に阪急などで監督)とバッテリーを組んで関西六大学リーグを沸かせ、2年生時には西日本の大学として初となる全日本大学野球選手権大会に優勝。

          阪神電鉄に入社し阪神タイガースへ出向という、ちょっと変わった入団方法であったが、これは大学時代に故障した肩の不安に対する保険だったようです。
          しかし、そんな不安を吹き飛ばし、新人で18勝10敗防御率1.19の大活躍で沢村賞獲得! が、新人王は中央大学卒の大洋ホエールズ・桑田武(31本塁打で本塁打王)に。沢村賞で新人王を獲れないとは、なんとレベルの高きことか。

          阪神・村山といえば巨人・長嶋茂雄との名勝負、特に天覧試合でのサヨナラ本塁打は有名ですね。
          村山曰く、「あれはファールだった!」。誰が何と言おうと!



          このメンコ、巨人・柴田勲が投手となってるから、新人の’62年のものかなぁ?
          しかし、この柴田、どうも柴田に見えないなあ。唇が赤いからかなぁ? ヒゲ濃くしたら柴田に見えるのかなぁ? う〜ん、どうだろ?


          ここから3枚は「野球のユニフォームってちょっと地味なんで、適当に色付けてみました」シリーズ!

          パッと見、南海ですな。


          タイガースもこの写真より昔、’40年代後半にエンジのアンダーシャツ着てたときもあったけど。この頃は黒のアンダーシャツです。お間違いなく。


          ありゃ、胸マークまで赤くなっちゃった。ていうか、眉毛描きすぎだよね。面相筆で一気に描いちゃったね。


          というわけで、12月10日は「ミスター・タイガース 永久欠番11」村山実が1936年に生まれた日でありました。


          “初代18歳の4番打者”土井正博

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             土井正博(どい・まさひろ)
            1943年生まれ
            近鉄バファローズ(1961〜’74年)/太平洋クラブライオンズ ー クラウンライターライオンズ ー西武ライオンズ(’75〜’81年)



            土井正博は大鉄高等学校を2年で中退し、1961年近鉄に入団。
            万年最下位の近鉄監督に就任した別当薫は、この18歳の長距離砲を4番に起用して話題となった。
            近鉄とライオンズ(太平洋、クラウン、西武)で20年の現役生活を送り、2452安打、465本塁打、1400打点の記録を残した。
            ちなみに、本塁打465本のうちライトに飛んだのはたった3本だったという。なんたるプルヒッターぶり!




            これは1973年シーズン中に刷られた「カルビー プロ野球カード」。
            この裏面には、打撃好調で打撃3部門全てで、張本、長池と争っていると書かれております。そして「これまであと一歩のところまでいながら(原文ママ)タイトルをとっていないが、ことしはあわよくば三つともとって三冠王を…とねらっている。」と、三冠王までも期待される調子の良さ! さあ、はたして結果は?!




            こちらは上のカードと同年’73年のシーズンが終了したときに刷られたカード……。
            打率こそ3位の.316(首位打者:加藤秀.337)と好成績だったが、29本塁打(本塁打王:長池43本)、74打点(打点王:長池109点)。
            コメントも「今年こそは、来年こそと期待されながら、無冠で終る土井選手だが、必ずやチビッ子ファンにこたえられるような成績を残すと約束してくれたよ。」と。
            「タイトル獲るよ!」とは約束してくれなかったようだ。
            しかし2年後の’75年、太平洋クラブライオンズに移籍した年に34本塁打で、念願のタイトルを獲得し、チビッ子ファンの期待に応えた(この頃土井がチビッ子に人気があった記憶はないが)。


            というわけで、昨日12月8日は土井正博68歳の誕生日でした。
            あ、余談ですが、土井正博は’78年、35歳の時に19歳の奥さんをもらってます。余談でした。



            西鉄の「斬り込み隊長」高倉照幸

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               高倉照幸(たかくら・てるゆき)
              1934年生まれ
              西鉄ライオンズ(1953〜’66年)/読売ジャイアンツ(’67〜’68年)/アトムズ ー ヤクルトアトムズ(’69〜’70年)



              18年の現役生活で1793試合に出場し、1611安打、168本塁打、640打点、178盗塁の記録を残した俊足、強肩の外野手。

              1番“斬り込み隊長”高倉、2番“野武士”豊田、3番“怪童”中西、4番“天才”大下、そして5番・関口、6番・河野、7番・仰木、8番・和田という西鉄黄金時代のラインナップは「流線型打線」と呼ばれた。



              1954年、当時西鉄のセンターは塚本悦郎、その塚本が結核に倒れ、代役で出場のチャンスを得たのが高卒2年目の高倉であった。
              ’52年には中西太が高卒新人でサードのレギュラーに、’53年にはこれも高卒新人の豊田泰光がショートのポジションを、そしてこの年の仰木彬も高卒1年目でセカンドのポジションを獲得し、2年目高倉を加え、西鉄ライオンズ黄金時代を迎えるのである。



              高倉は「野武士軍団」西鉄ではめずらしく、「飲む・打つ・買う」は一切やらず、趣味に金を注ぎ込んでいたそうな。
              趣味はレコード収集と自動車。特にカー・マニアぶりは凄かったそうで、10年で15台の高級外車を手に入れるんですが、それらに乗るのが好きというより自動車整備にのめり込んでいたんだと。整備のための部品にも大金を注ぎ込み、いつも金欠だったという。

              そんなわけで、本日12月8日は高倉照幸77歳の誕生日であります。


              “変人”と呼ばれたバットマン 榎本喜八

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                 榎本喜八(えのもと・きはち)
                1936年生まれ
                毎日オリオンズ ー 大毎オリオンズ ー 東京オリオンズ ー ロッテオリオンズ (1955〜’71年)/西鉄ライオンズ (’72年)





                首位打者2回、通算2314安打、1000本安打到達は歴代最速。
                2番田宮、から榎本、山内、葛城と続く大毎の「ミサイル打線」で1960年にリーグ制覇。





                 1954年秋、早稲田実業高校3年の榎本は、毎日オリオンズのテストを受け合格。なんと、まだ高校卒業前のその年11月にオープン戦に出場している。
                 当時の監督別当薫は「高校を出たばかりの打者で、はじめて何も手を加える必要のないバッティング・フォームを持つ者が現れた」(『さらば 宝石』沢木耕太郎/著)と絶賛。

                榎本をプロ5年目から指導し、後に王貞治を世界の本塁打王に育てた荒川博は、「王が努力の人と言われるけれど、それ以上にバットを振ったのが榎本ですよ。時間の許す限り、振ってんだから。あの王の倍は振ったね。」と語っている。(『プロ野球「無頼派」選手読本』文/松井浩)

                榎本は天才打者であり、そのうえさらに努力を重ね、打撃の真髄を追い求めた求道者であった。王さんの倍かぁ、恐るべし。





                榎本の“変人”ぶりはよく知られておりおりますが、どんな奇行があったのかといいますと。

                若い頃は、思うように打てないと、田んぼで捕まえてきたガマガエルを紙袋に入れて木に吊るし、空気銃で撃って憂さを晴らした。
                現役晩年は、それでは憂さが晴れず、帰宅してからコーラ瓶や窓ガラスをバットで叩き割ったり、チャンスで代打を送られると、医務室のドアをバットで叩き壊したりしたという。’71年にはついに猟銃を持って部屋に立て篭もる行為まで。(『プロ野球「無頼派」選手読本』より抜粋)恐るべし。

                立て篭もり事件の翌’72年には西鉄に移籍するが、思うような打撃は戻らず、その年オフに引退した。
                その後、自宅付近をランニングする姿が目撃され、現役復帰を目指していると噂された。75歳となった今は走っていないと思う。おそらく。



                この版ズレはスゴイな。


                というわけで、本日12月5日は榎本喜八75歳の誕生日でありました。

                「『打撃の真髄 榎本喜八伝』松井浩著/講談社」を読み直してみるとするか。

                和製火の玉 荒巻淳

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                   荒巻淳(あらまき・あつし)
                  1926年生まれ
                  毎日オリオンズ ー 大毎オリオンズ(1950~’61年)/阪急ブレーブス(’62年)
                  1971年没(45歳)
                  1985年野球殿堂入り



                  「火の玉投手」といえば、第2次世界大戦を挟んでクリーブランド・インディアンスで活躍した大投手、ボブ・フェラーのことであるが、ボブ・フェラー引退から4年後に社会人野球の強豪、星野組から毎日オリオンズに入団した荒巻淳は、利き腕こそ左投げと違いはあるが、その快速球から「和製火の玉投手」と呼ばれた。



                  プロ野球が2リーグに分裂し毎日オリオンズが創設された1950年、新人の荒巻は26勝8敗、防御率2.06で最多勝と最優秀防御率そして新人王を獲得し、オリオンズの創設1年目での日本一に貢献した。
                  通算173勝107敗、’53~’59年まで7年連続15勝以上を挙げ、’50年代プロ野球を代表する投手となった。



                  左のメンコのマークは毎日オリオンズ初年度のビジターユニフォームの左肩に付けられていたもの。
                  右のユニフォームの「Mainichi」という筆記体の文字も初年度のみなので、この2枚は’50年製作のダイカット・メンコであろうと推察できる。


                  というわけで、明日11月16日は1926年に荒巻淳が生まれた日であります。

                  日本チーム『東京ドラゴンズ』を率いて南米に乗り込んだ男 森徹

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                    森徹(もり・とおる)
                    1935年生まれ
                    中日ドラゴンズ(1958~’61年)/大洋ホエールズ(’62~’65年)/東京オリオンズ(’66~’68年)



                    長嶋茂雄が立教大で通算8本塁打の六大学野球記録を作ったころ、早稲田大の同学年にいた強打者が森徹。長嶋の大学通算記録は87安打、8本塁打、37打点だったのに対し、森は63安打、5本塁打、打点は長嶋と同じ37打点という記録が残っている。

                    森は中日に入団した1年目の1958年、112試合に出場し、打率こそ.247と高くはないが、23本塁打、73打点を挙げた。しかし、プロに入っても長嶋が立ちはだかる。長嶋は同年、全130試合に出場して打率.305、29本塁打、92打点を記録。新人王に輝いたのは長嶋であった。
                    しかし翌年、森のバットは冴え渡り、31本塁打、87打点で二冠王に。中日のスタープレイヤーとして4年間活躍したが、’62年大洋へトレード。これは濃人監督との確執が原因と言われている。

                    現役を引退した翌’69年、メジャーリーグに匹敵する世界規模のリーグをとの旗印のもと、『グローバルリーグ』が設立され、ベネズエラを中心にリーグ戦が行われた。
                    このとき日本チーム『ハポン・デ・トキオ(東京ドラゴンズ)』を選手権監督で率いたのが森であった。
                    しかし、このリーグはすぐに運営が立ち行かなくなる。わずか半年ほどで森たちは帰国することとなった。
                    この『グローバルリーグ』に賭けた森の意気込みは相当なものだったようで、このチームのメンバーだったハイディ古賀の野球人生を描いた『二軍監督』(國安輪・著/講談社)によると、
                    「十二チームしかない日本プロ野球界では、契約してもらえる選手があまりにも少なすぎる。(中略)なんとしてもグローバルリーグを成功させて現状を打破。一人でも多くの若い選手たちの受け皿になってやりたい」
                    と語っている。



                    森の在籍当時、中日のユニフォームがストライプだったことはない。そもそもブルー地に白のストライプなどはドラゴンズの歴史上存在しない。勝手に書いちゃったんだね。ところで、後で構えて「バッチ来〜い!」って言ってるのは誰ですか?



                    トンボを担いでスキップを刻む森徹。何のトレーニングなのでしょう?



                    大洋時代の森のアンカット・メンコ。同期のヒーロー長嶋、大洋の主砲桑田武、大毎の小野正一、国鉄・金田正一の面々。


                    というわけで、昨日11月3日は森徹76歳の誕生日でした。


                    「庄」と書いて「あつし」と読む。通称は「しょう」の堀内庄

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                       堀内庄(ほりうち・あつし)
                      1935年生まれ
                      読売ジャイアンツ(1954~’63年)
                      2010年没(75歳)



                      松商学園高校時代は2年の春・夏、3年の夏と3度出場。さすが春・夏合わせて50回の最多出場校、松商! しかし3度とも初戦敗退。ここんとこも松商らしい。

                      巨人入団3年目の1956年には14勝4敗の.857で最高勝率のタイトル獲得。’56から’58の3年連続2桁勝利、巨人の5連覇に主力投手として貢献した。当時の巨人主力投手陣は堀内庄の他、大友工、別所毅彦、藤田元司など。

                      ’78年にはヤクルトスワローズの投手コーチとして、球団史上初優勝するが、シーズン終盤の練習中に顔面に打球を受け、優勝決定時にはベンチにはいなかったという不運のコーチ。
                      このときのヤクルトの首脳陣は広岡達朗・監督、森昌彦・バッテリーコーチ、堀内庄・投手コーチと、巨人の頭脳が集まっていた。




                      堀内庄は2年目の’55年から「背番号10」を背負っていたが、巨人の「10」というと強打者のイメージが強い。主な「背番号10」を遡ってみると、阿部 慎之助(2001〜)ー 広沢克(1997〜’99)ー 吉岡雄二(’94〜’96)ー 駒田徳広(’88〜’93)ー 加藤英司(’86)ー クルーズ(’83)ー ホワイト(’80〜’82)ー 張本勲(’76〜’79)ー 阿野鉱二(’71〜’75)ー 高倉照幸(’67〜’68)というかんじ。
                      しかし、堀内庄の他にも「背番号10」の投手は宮本洋二郎(’65〜’66)、田中章(’69〜’70)の二人いて、宮本は巨人時代2年間で2勝2敗で広島へトレード、田中は2年間で4勝3敗で西鉄ライオンズへトレード。やはり野手が付けた方が良さそうである。



                      なかなか迫力のあるメンコであるが、前でバット構えてるオッサンは誰ですか? ジャイアンツでもないみたいですが。

                      というわけで、10月5日は堀内庄が1935年に生まれた日、そして10月27日は昨2010年に75歳で他界した日でした。



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