2番・ショートのイメージを変えたスラッガー 豊田泰光

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    豊田泰光(とよだ・やすみつ)
    1935年生まれ
    西鉄ライオンズ(1953〜'62年)/国鉄スワローズ ー サンケイスワローズ ーサンケイアトムズ ーアトムズ(’63〜’69年)
    2006年野球殿堂入り



    西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併し、三原修を監督に迎えて西鉄ライオンズがスタートしたのが1951年のこと。
    三原は真のプロチームを創るべく、凄まじい新陳代謝を敢行した。なんと、’51年から'53年の間に34人中26人を解雇やトレードで放出。一方’52年には“四国の怪童”中西太がデビューし高卒で新人王、前年に東急で二冠王の“青バット”大下弘もトレードで獲得した。

    豊田が水戸商業から西鉄に入団したのは中西デビューの翌年、'53年のことで、この年は2年目から外野手のレギュラーとなる高倉照幸、ともに2年目で20勝を挙げる河村久文、西村貞朗らも入団している。
    豊田は1年目からショートのレギュラーで115試合に出場し、打率.281、27本塁打で新人王を獲得。この27本塁打は当時の新人記録で、ついでに言うと失策45という未熟さも露呈。失策に関しては、デビューから5年間で実に195個記録しております。
    この守備のひどさは、エースの川崎徳次が「とにかく豊田のヤツを使わんで下さい。これは、チーム24名全員の意見です」と、三原監督に訴えたほどだったというエピソードを聞けば、拙守ぶりは想像できます。

    翌'54年には1年目からセカンドに定着する仰木彬、さらに'55年に和田博実、若生忠男、玉造陽二が入団、そして’56年には稲尾和久が入団し最優秀防御率(1.06)で新人王を獲得し、豊田が.325で首位打者、中西は本塁打(29本)、打点(95打点)の二冠王。日本シリーズでは巨人を破り、西鉄ライオンズは黄金時代を迎えるのであります。



    豊田は西鉄時代、日本シリーズに4回出場し、’56〜’58年はすべて巨人を破り3連覇、'56年日本シリーズでは24打数10安打で打率.417でMVPに輝いている。
    シリーズ通算打率は.362で、100打席以上の選手では川上哲治の.365に次いで歴代2位。通算の長打率も.638で、長嶋、王に次いで3位と大舞台での勝負強さは圧巻だった。



    豊田の豪快なバッティングフォ〜〜ム! って、このトリミングはどうなのよ。
    斬新すぎるね。



    これ、吉田(阪神)と豊田だと思うんだけどな〜。
    そもそも盤田なんていう選手存在しないと思うんですが。
    違うかな〜?



    非常に地味な面々とのアンカット版。実にジミ。



    一転豪華な面々と。
    スワローズ時代のアンカット版です。


    というわけで、2月12日は豊田泰光76歳の誕生日でありました。
    いつまでもお元気で!


    投手で「準完全試合」、野手で首位打者 田宮謙次郎

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      田宮謙次郎(たみや・けんじろう)
      1928年生まれ
      大阪タイガース(1949〜'58年)/大毎オリオンズ('59〜'63年)
      2002年野球殿堂入り
      2010年没(82歳)



      日大3年の秋シーズン終了後、中退してタイガースに入団した田宮投手。1年目の1949年にはいきなり11勝を挙げた。
      翌年の3月16日対国鉄戦には9回2アウトまでパーフェクトピッチングを続け、迎えた打者・中村栄の当りは、バント警戒で前進していたサード藤村富美男の頭上をふらふらっと越え、あと一人で史上初の「完全試合」の達成はならなかった。この年は結局この1勝だけで、登板数も6試合のみに終った。'51,'52年もそれぞれ5試合の登板で無勝利、'52年途中に学生時代から定評の合った打撃を活かして外野手に転向した。



      野手転向3年目の'54年にレギュラー定着し打率.300。その後、タイガース、オリオンズで打率3割越えを7度記録した。
      長嶋茂雄が1年目の'58年には打率.320で首位打者に。本塁打、打点のタイトルを獲った長嶋の“新人で三冠王”という快挙を阻んだ。



      それにしても豪快に見切れてます。名前が無ければ誰だかわかりませ〜ん。



      大毎時代の田宮謙次郎。だいぶ体形が崩れてきてますね。8年続いていた二桁盗塁が途絶えたころの写真です。


      というわけで、明日2月11日は田宮謙次郎が1928年に生まれた日であります。


      華麗な遊撃手から「管理野球」で名監督に 広岡達朗

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        広岡達朗(ひろおか・たつろう)
        1932年生まれ
        読売ジャイアンツ(1954〜'66年)
        1992年野球殿堂入り



        早稲田大学で六大学野球のスターとして活躍、巨人入団1年目の1954年からショートのレギュラーになり、打率.314でこの年新人王。華麗な守備で鳴らしたが、同時代の阪神に“牛若丸”と呼ばれた吉田義男がいたため、ベストナインを獲得したのは1回だけだった。吉田は9回ベストナインに選ばれている。



        広岡が、より存在感を示すのは指導者となってから。広島、ヤクルトでコーチを経験した後、'76年からヤクルトスワローズ監督に。初年度こそ5位に沈んだが、翌年は2位、そして3年目の'78年にはついにヤクルトを初優勝に導く。しかし、翌'79年には球団と対立し辞任、成績も最下位となった。
        ’82年から西武ライオンズの監督に就任すると、徹底した管理野球で就任1年目で日本一。翌'83年もペナントを制すると、古巣巨人との日本シリーズで死闘を演じた末勝利し、連続日本一に輝いた。


        西鉄・稲尾和久とのツー・ショット。
        初めて日本シリーズでの顔合わせは'56年の第2戦の二回裏、セカンドゴロに倒れている。その後も'57、'58、'63年に対戦し、対戦成績は44打数11安打(.250)。広岡の生涯打率.240を考えるとまずまずか。本塁打も1本打ってるし。



        '58年に長嶋茂雄が入団し、三遊間コンビを組むことに。広岡へのゴロを長嶋がカットして華麗に刺すプレーに巨人ファンは痺れたが、堅実な広岡がいたからこそ長嶋の大胆なプレーが成立したのではないだろうか。



        さあ、問題のツーショット!
        犬猿の仲と言われたこの二人、この頃はまだ関係良好だったのだろうか? 広岡の笑顔が引きつっているように見えるが。
        後に確執は解消されているようで、ひと安心。

        というわけで、本日2月9日は広岡達朗80歳の誕生日です。

        走れ! 赤手袋 柴田勲

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          柴田勲(しばた・いさお)
          1944年生まれ
          読売ジャイアンツ(1962〜''81年)



          盗塁王6回、ベストナイン4回、ダイヤモンドグラブ賞5回、オールスターゲーム12回出場、生涯一度も打率3割を超えずに2000本安打を達成した(柴田と田中幸雄のみ)。
          レフト・高田、センター・柴田、ライト・末次、私が少年時代のジャイアンツ不動の外野陣です。



          法政二高でエースとして活躍、甲子園のスターとして巨人に入団。1年目の開幕2戦目で先発に大抜擢。しかし、その試合ノックアウトされると、その後も6試合(先発3試合)で0勝2敗、防御率9.82で投手失格。野手として生きていくため二軍でスイッチヒッターの猛特訓。翌年には外野手レギュラーになるのだから、ず抜けたセンスがうかがわれる。



          最初の盗塁王は1966年、翌’67年には70盗塁など6回の盗塁王に輝き、通算579盗塁は現在もセ・リーグ記録。甘いマスクと赤手袋、“ドライボーイ”と呼ばれたストレートな発言で、'60年代当時、女性に大変人気があった。
          通算194本塁打とONに次ぐ長打力を誇り、一度だけだが、3番・長島、4番・柴田、5番・王の打順が形成されたことも。


          ルーキー時代のメンコ。確かにモテそうだ。クチビル赤いし!



          これ、目つぶっちゃってるよね。ご愛嬌。

          コーチ時代に三塁コーチスボックスに立った柴田は「壊れた信号機」と呼ばれ、トランプ賭博で逮捕され、釈放会見でトランプのジョーカー柄のセーターで現れるズッコケぶりも見せたが、私が子どもの頃の柴田は、確かにカッコよかったです! よっ! 「銀座の盗塁王」!

          そんなわけで、本日2月8日は柴田勲68歳の誕生日であります。


          ’50〜'60年年代ホエールズの“顔” 秋山登

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            秋山登(あきやま・のぼる)
            1934年生まれ
            大洋ホエールズ(1956〜'67年)
            2000年没(66歳)
            2004年野球殿堂入り



            通算(12年)193勝171敗。新人王(1960年)、MVP1回('60年)、ベストナイン1回('60年)。入団から4年連続最多敗戦、すべて20敗以上と弱小大洋ホエールズで孤軍奮闘。報われたのは5年目の'60年。三原監督の一年目に一転、最高勝率でホエールズの初優勝に貢献した。



            入団から9年連続で50試合以上に登板し、9年連続二桁勝利、そのうち20勝以上は6回、「カミソリシュート」と速球を武器としたタフな横手投げ投手だった。高校の後輩で秋山と入れ替わるように大洋のエースとなった平松政次の決め球「カミソリシュート」は有名だが、初代はこの人、秋山登。



            '75,'76年とホエールズの監督を務めたが、5位、6位と結果は残せなかった。
            監督当時の主なメンバーは、エース平松、捕手は福島久晃、伊藤勲のツープラトン。内野は松原誠(一塁)、シピン(二塁)、ボイヤー(三塁)、山下大輔(遊撃)、外野は江尻亮、中塚政幸、長崎慶一。
            打線は良かったんですがね……。



            これは'60年頃、晩年の別所(巨人)とのツーショット。

            というわけで、本日2月3日は秋山登が1934年に生まれた日でありました。



            監督就任発表の4日後に急死…… 蔭山和夫

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               蔭山和夫(かげやま・かずお)
              1927年生まれ
              南海ホークス(1950〜'59年)
              1965年没(38歳)



              1950年、早稲田大から南海ホークスに入団した蔭山は、1年目から二塁手、三塁手、遊撃手として全試合出場。
              翌'51年には三塁手として全試合出場し、打率三割を超え(.315)、レギュラー2年目だったがリーグ結成間もないことから特例として新人王獲得。
              この年9月28日の対近鉄戦で、1試合3三塁打の日本タイ記録。またこの試合17塁打のパ・リーグ記録を達成。17塁打とは本塁打4本で16塁打であるから、いかに凄いことか。
              しかし、蔭山は翌日の対阪急戦の第1打席でも三塁打を放ち、前日から3打席連続三塁打の日本記録も達成した。



              蔭山が新人王を獲得した'51年の南海内野陣は「100万ドルの内野陣」と呼ばれ、打順でいうと、1番(三)蔭山、2番(遊)木塚忠助、3番(一)飯田徳治、4番(二)山本一人。蔭山、木塚の1、2番コンビは’50年に蔭山25、木塚78盗塁(盗塁王)。'51年は蔭山42、木塚55盗塁(盗塁王)とよく走った。



              '59年に引退した後は、ホークスのヘッドコーチとして鶴岡(山本)監督を支えた。
              そして'65年、シーズンをぶっちぎりで制したホークスだったが、日本シリーズで巨人に1勝4敗と惨敗。この責任をとるかたちで勇退した鶴岡に替わり、蔭山の監督就任が11月13日に発表された。
              その4日後の17日早朝、なんと「急性副腎皮質機能不全」で蔭山が急死。サンケイと東京オリオンズに監督として誘われ悩んでいた鶴岡は、蔭山急死の3日後にホークスへの監督復帰を決めた。
              蔭山は38歳という若さだった。



              守備の写真のメンコが多い蔭山和夫。まったく顔が見えませんが、「南海 蔭山内野手」と書かれているんで、これもおそらく蔭山和夫です。


              というわけで、1月最後の日になってしまいましたが、今月16日は1927年に蔭山和夫が生まれた日でありました。

              甲子園史上最高の打者“坂崎大明神” 坂崎 一彦

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                坂崎 一彦(さかざき かずひこ)
                1938年生まれ
                読売ジャイアンツ(1956〜’64年)/東映フライヤーズ(’65〜’67)



                浪華商業高校時代の坂崎を甲子園史上最高の打者に挙げる人も多いという。
                「ケンカ八郎」こと山本八郎と共に出場した1955年のセンバツでは、15打数9安打2本塁打8敬遠。あまりの打棒に“坂崎大明神”と新聞に書かれ、決勝の相手となった桐生高校監督の稲川東一郎は、エース今泉喜一郎に坂崎への全打席敬遠を命じたという。しかし、今泉投手は坂崎の第3打席にプライドをかけ勝負に出た。結果は逆転2ラン本塁打。その後同点で迎えた延長11回、浪華商は坂崎敬遠後に山本が繋ぎ、最後はスクイズで優勝を決めた。



                巨人入団後はなかなか結果が出なかったが、3年目の'58年にオールスター出場、'59にはリーグ4位の打率.284でベストナインに選ばれた。この年、長嶋茂雄のサヨナラホームランで有名な天覧試合で、王貞治とともに本塁打を放っている。




                というわけで、先週1月14日は坂崎一彦74歳の誕生日でした。

                V9巨人、陰のMVP 森昌彦

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                  森昌彦(もり・まさひこ)※現在は「森祇晶(もり・まさあき)」
                  1937年生まれ
                  読売ジャイアンツ(1955〜’74年)
                  2005年野球殿堂入り



                  ベースボールマガジン社発行の「ジャイアンツ栄光の70年」によると、岐阜高校時代は東大受験も可能な成績優秀児だったと。合格できるレベルだったかは別として。
                  1955年に家庭の事情で大学進学をあきらめ巨人に入団。
                  このときの巨人の捕手は強肩強打の藤尾茂。もちろん出番は無い。しかし、生来の勉強好きが実を結び、5年目の’59年、藤尾を外野へ追いやり念願の正捕手の座を手に。
                  ここから引退する’74年まで16年間でV9を含みリーグ優勝12回、11回の日本一という、まさに巨人黄金時代を支えた。


                  現役最終年1974年のカルビープロ野球カード


                  森といえば、コーチ、監督としてのイメージの方が強いという方も多いことでしょう。
                  初めてのコーチは現役晩年’72〜’74年の兼任バッテリーコーチ。その後、ヤクルトで広岡達朗監督のもとでヘッド格のバッテリーコーチを務め、’78年にヤクルトを初優勝に導く。
                  西武ライオンズでの’83年日本シリーズでは、広岡監督、森コーチのコンビで激闘の末に古巣・巨人を倒し日本一に。’86年からは西武の監督となる。
                  西武の監督9年間でリーグ優勝8回、日本一6回。リーグ優勝できなかったのは’89年の3位一回だけという常勝っぷり。
                  そして、最終年となった’94年の日本シリーズ第6戦、試合前の東京ドームに着いた私は、信じられない光景を目にすることになる。
                  なんと、巨人の王手で迎えた第6戦前のドーム電光掲示板に「森監督退任」のニュースが流れているではないか。そのときは巨人も姑息な手を使うなと思ったが、西武・堤オーナーが意図的に情報を流したとする見方もあるらしい。



                  これもV9目指している’74年シーズンのカルビープロ野球カード。裏面には最終年らしい文面が。


                  そんなわけで、1月9日は森祇晶(昌彦)75歳の誕生日でした。
                  今はアメリカ合衆国永住権を取得し、ハワイにお住まいとのこと。

                  31本の新人本塁打記録を持つ男 桑田武

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                     桑田 武(くわた たけし)
                    1937年生まれ
                    大洋ホエールズ(1959〜’68年)/読売ジャイアンツ(’69年)/ヤクルトアトムズ(’70年)
                    1991年没(54歳)



                    中央大学から大洋ホエールズに入団した1959年のルーキーシーズン、前年に長嶋茂雄が記録した29本の新人本塁打記録を悠々と抜き去り31本で本塁打王、新人王に輝いた桑田武。このルーキー、相当相手チームから警戒されていたようで、敬遠四球はリーグトップの21個を記録しております。新人でこの数字、恐るべし。
                    翌’60年のホエールズは三原修を監督に迎え、前年の最下位からの日本一という偉業を。桑田自身もシーズン前半は好調で、打撃三部門全てでトップを走っていたが、8月に死球を受け離脱し、打率こそ3割を超えたものの(打率.301)16本塁打、67打点に終った。
                    ’61年のホエールズは前年の“三原マジック”日本一から一転、首位から21.5差の最下位に、魔法はすっかり醒めてしまっておりましたとさ。
                    しかし桑田の打棒は冴え、94打点でタイトルを獲得。打率.353、28本塁打で二冠(86打点)だった長嶋の三冠王を阻んだ。

                    現役晩年の桑田は’69年に巨人に移籍するが1本の安打も打てず戦力外、’70年にはヤクルトに在籍したが出番はほとんど無く、9月8日にオートレース八百長の疑いで逮捕されることに。後日コミッショナー委員会から出場停止3ヶ月の裁定が下り、そのまま引退となった。



                    ズレズレです。版もズレておりますし、裁ちも豪快にズレております。



                    このメンコは森徹が大洋で金田が国鉄ということは、’62〜’64年のものか? ホエールズの胸マークが赤ということは’63年の写真かな。



                    こちらはカードゲームの中の一枚。ジャック・ラドラは’58年から’64年まで東映フライヤーズに在籍したハンサム助っ人。



                    ’50〜’60年代には野球カードのオマケが付いた菓子がいくつかありましたが、これは「マルト野球ガム」のオマケ。
                    あれっ?! 今気付きましたが、「大洋」が「太洋」になってるじゃんっ!


                    というわけで、1月5日は1937年に桑田武が生まれた日でありました。二週間も前のことですが……。


                    ドラゴンズ戦後初の本塁打王、杉山 悟

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                      杉山 悟(すぎやま さとし)
                      1926年生まれ
                      中日ドラゴンズ ー 名古屋ドラゴンズ ー 中日ドラゴンズ(1948〜’58年)/国鉄スワローズ(’59年)/近鉄バファロー(’60年)
                      2009年没(83歳)



                      岡崎中学から軟式野球のチームだったユタカ産業を経て1948年に中日入団。大柄な体格から「デカちゃん」と呼ばれた。
                      ’48年のドラゴンズは、1年目から36盗塁の活躍をみせた二塁手の国枝利通、外野手の原田徳光(督三)も入団しており、杉山と合わせ新人三人が100試合以上出場するという新鮮なラインナップとなった。

                      入団2年目の1949年には31本塁打をマーク。1952年に27本を打ち、本塁打王のタイトルに輝く。この’52年は西沢道夫が首位打者、打点王を獲得し、同チームで打撃三冠を独占した。

                      ドラゴンズが日本一となった’54年には打点王と2回目のベストナインを獲得。

                      ’54年中日の日本一メンバーは
                      1(中)本多逸郎
                      2(右)原田徳光
                      3(一)西沢道夫
                      4(三)児玉利一
                      5(左)杉山悟
                      6(捕)野口明
                      7(二)井上登
                      8(遊)牧野茂
                      〈投手〉
                      杉下茂
                      石川克彦
                      空谷泰
                      徳永喜久夫
                      服部受弘
                      大島信雄

                      後にV9巨人の参謀として辣腕を振るう牧野が、華麗な守備の名手としてショートのレギュラーだった頃ですね。ちなみにこの年の牧野の打率は.197、通算打率も.217という典型的な守備の人でした。



                      左のメンコは白の帽子に紺のひさし、左腰に番号があるということは'48年のデカちゃんを描いたものであろう。強打者の風格が漂う一枚です。
                      右のはまったく似てませんねぇ。ユニフォームのデザインもテキトーです。



                      お、これはなかなか似ております。状態も良いし、人型に無理やり顔をはめ込んだデザインもGoodです。


                      というわけで、2012年最初の「野球狂スタヂアム」は、1926年1月1日に生まれた杉山悟でした。
                      本年もよろしくお願いいたします。


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