監督就任発表の4日後に急死…… 蔭山和夫

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     蔭山和夫(かげやま・かずお)
    1927年生まれ
    南海ホークス(1950〜'59年)
    1965年没(38歳)



    1950年、早稲田大から南海ホークスに入団した蔭山は、1年目から二塁手、三塁手、遊撃手として全試合出場。
    翌'51年には三塁手として全試合出場し、打率三割を超え(.315)、レギュラー2年目だったがリーグ結成間もないことから特例として新人王獲得。
    この年9月28日の対近鉄戦で、1試合3三塁打の日本タイ記録。またこの試合17塁打のパ・リーグ記録を達成。17塁打とは本塁打4本で16塁打であるから、いかに凄いことか。
    しかし、蔭山は翌日の対阪急戦の第1打席でも三塁打を放ち、前日から3打席連続三塁打の日本記録も達成した。



    蔭山が新人王を獲得した'51年の南海内野陣は「100万ドルの内野陣」と呼ばれ、打順でいうと、1番(三)蔭山、2番(遊)木塚忠助、3番(一)飯田徳治、4番(二)山本一人。蔭山、木塚の1、2番コンビは’50年に蔭山25、木塚78盗塁(盗塁王)。'51年は蔭山42、木塚55盗塁(盗塁王)とよく走った。



    '59年に引退した後は、ホークスのヘッドコーチとして鶴岡(山本)監督を支えた。
    そして'65年、シーズンをぶっちぎりで制したホークスだったが、日本シリーズで巨人に1勝4敗と惨敗。この責任をとるかたちで勇退した鶴岡に替わり、蔭山の監督就任が11月13日に発表された。
    その4日後の17日早朝、なんと「急性副腎皮質機能不全」で蔭山が急死。サンケイと東京オリオンズに監督として誘われ悩んでいた鶴岡は、蔭山急死の3日後にホークスへの監督復帰を決めた。
    蔭山は38歳という若さだった。



    守備の写真のメンコが多い蔭山和夫。まったく顔が見えませんが、「南海 蔭山内野手」と書かれているんで、これもおそらく蔭山和夫です。


    というわけで、1月最後の日になってしまいましたが、今月16日は1927年に蔭山和夫が生まれた日でありました。

    甲子園史上最高の打者“坂崎大明神” 坂崎 一彦

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      坂崎 一彦(さかざき かずひこ)
      1938年生まれ
      読売ジャイアンツ(1956〜’64年)/東映フライヤーズ(’65〜’67)



      浪華商業高校時代の坂崎を甲子園史上最高の打者に挙げる人も多いという。
      「ケンカ八郎」こと山本八郎と共に出場した1955年のセンバツでは、15打数9安打2本塁打8敬遠。あまりの打棒に“坂崎大明神”と新聞に書かれ、決勝の相手となった桐生高校監督の稲川東一郎は、エース今泉喜一郎に坂崎への全打席敬遠を命じたという。しかし、今泉投手は坂崎の第3打席にプライドをかけ勝負に出た。結果は逆転2ラン本塁打。その後同点で迎えた延長11回、浪華商は坂崎敬遠後に山本が繋ぎ、最後はスクイズで優勝を決めた。



      巨人入団後はなかなか結果が出なかったが、3年目の'58年にオールスター出場、'59にはリーグ4位の打率.284でベストナインに選ばれた。この年、長嶋茂雄のサヨナラホームランで有名な天覧試合で、王貞治とともに本塁打を放っている。




      というわけで、先週1月14日は坂崎一彦74歳の誕生日でした。

      V9巨人、陰のMVP 森昌彦

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        森昌彦(もり・まさひこ)※現在は「森祇晶(もり・まさあき)」
        1937年生まれ
        読売ジャイアンツ(1955〜’74年)
        2005年野球殿堂入り



        ベースボールマガジン社発行の「ジャイアンツ栄光の70年」によると、岐阜高校時代は東大受験も可能な成績優秀児だったと。合格できるレベルだったかは別として。
        1955年に家庭の事情で大学進学をあきらめ巨人に入団。
        このときの巨人の捕手は強肩強打の藤尾茂。もちろん出番は無い。しかし、生来の勉強好きが実を結び、5年目の’59年、藤尾を外野へ追いやり念願の正捕手の座を手に。
        ここから引退する’74年まで16年間でV9を含みリーグ優勝12回、11回の日本一という、まさに巨人黄金時代を支えた。


        現役最終年1974年のカルビープロ野球カード


        森といえば、コーチ、監督としてのイメージの方が強いという方も多いことでしょう。
        初めてのコーチは現役晩年’72〜’74年の兼任バッテリーコーチ。その後、ヤクルトで広岡達朗監督のもとでヘッド格のバッテリーコーチを務め、’78年にヤクルトを初優勝に導く。
        西武ライオンズでの’83年日本シリーズでは、広岡監督、森コーチのコンビで激闘の末に古巣・巨人を倒し日本一に。’86年からは西武の監督となる。
        西武の監督9年間でリーグ優勝8回、日本一6回。リーグ優勝できなかったのは’89年の3位一回だけという常勝っぷり。
        そして、最終年となった’94年の日本シリーズ第6戦、試合前の東京ドームに着いた私は、信じられない光景を目にすることになる。
        なんと、巨人の王手で迎えた第6戦前のドーム電光掲示板に「森監督退任」のニュースが流れているではないか。そのときは巨人も姑息な手を使うなと思ったが、西武・堤オーナーが意図的に情報を流したとする見方もあるらしい。



        これもV9目指している’74年シーズンのカルビープロ野球カード。裏面には最終年らしい文面が。


        そんなわけで、1月9日は森祇晶(昌彦)75歳の誕生日でした。
        今はアメリカ合衆国永住権を取得し、ハワイにお住まいとのこと。

        31本の新人本塁打記録を持つ男 桑田武

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           桑田 武(くわた たけし)
          1937年生まれ
          大洋ホエールズ(1959〜’68年)/読売ジャイアンツ(’69年)/ヤクルトアトムズ(’70年)
          1991年没(54歳)



          中央大学から大洋ホエールズに入団した1959年のルーキーシーズン、前年に長嶋茂雄が記録した29本の新人本塁打記録を悠々と抜き去り31本で本塁打王、新人王に輝いた桑田武。このルーキー、相当相手チームから警戒されていたようで、敬遠四球はリーグトップの21個を記録しております。新人でこの数字、恐るべし。
          翌’60年のホエールズは三原修を監督に迎え、前年の最下位からの日本一という偉業を。桑田自身もシーズン前半は好調で、打撃三部門全てでトップを走っていたが、8月に死球を受け離脱し、打率こそ3割を超えたものの(打率.301)16本塁打、67打点に終った。
          ’61年のホエールズは前年の“三原マジック”日本一から一転、首位から21.5差の最下位に、魔法はすっかり醒めてしまっておりましたとさ。
          しかし桑田の打棒は冴え、94打点でタイトルを獲得。打率.353、28本塁打で二冠(86打点)だった長嶋の三冠王を阻んだ。

          現役晩年の桑田は’69年に巨人に移籍するが1本の安打も打てず戦力外、’70年にはヤクルトに在籍したが出番はほとんど無く、9月8日にオートレース八百長の疑いで逮捕されることに。後日コミッショナー委員会から出場停止3ヶ月の裁定が下り、そのまま引退となった。



          ズレズレです。版もズレておりますし、裁ちも豪快にズレております。



          このメンコは森徹が大洋で金田が国鉄ということは、’62〜’64年のものか? ホエールズの胸マークが赤ということは’63年の写真かな。



          こちらはカードゲームの中の一枚。ジャック・ラドラは’58年から’64年まで東映フライヤーズに在籍したハンサム助っ人。



          ’50〜’60年代には野球カードのオマケが付いた菓子がいくつかありましたが、これは「マルト野球ガム」のオマケ。
          あれっ?! 今気付きましたが、「大洋」が「太洋」になってるじゃんっ!


          というわけで、1月5日は1937年に桑田武が生まれた日でありました。二週間も前のことですが……。


          ドラゴンズ戦後初の本塁打王、杉山 悟

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            杉山 悟(すぎやま さとし)
            1926年生まれ
            中日ドラゴンズ ー 名古屋ドラゴンズ ー 中日ドラゴンズ(1948〜’58年)/国鉄スワローズ(’59年)/近鉄バファロー(’60年)
            2009年没(83歳)



            岡崎中学から軟式野球のチームだったユタカ産業を経て1948年に中日入団。大柄な体格から「デカちゃん」と呼ばれた。
            ’48年のドラゴンズは、1年目から36盗塁の活躍をみせた二塁手の国枝利通、外野手の原田徳光(督三)も入団しており、杉山と合わせ新人三人が100試合以上出場するという新鮮なラインナップとなった。

            入団2年目の1949年には31本塁打をマーク。1952年に27本を打ち、本塁打王のタイトルに輝く。この’52年は西沢道夫が首位打者、打点王を獲得し、同チームで打撃三冠を独占した。

            ドラゴンズが日本一となった’54年には打点王と2回目のベストナインを獲得。

            ’54年中日の日本一メンバーは
            1(中)本多逸郎
            2(右)原田徳光
            3(一)西沢道夫
            4(三)児玉利一
            5(左)杉山悟
            6(捕)野口明
            7(二)井上登
            8(遊)牧野茂
            〈投手〉
            杉下茂
            石川克彦
            空谷泰
            徳永喜久夫
            服部受弘
            大島信雄

            後にV9巨人の参謀として辣腕を振るう牧野が、華麗な守備の名手としてショートのレギュラーだった頃ですね。ちなみにこの年の牧野の打率は.197、通算打率も.217という典型的な守備の人でした。



            左のメンコは白の帽子に紺のひさし、左腰に番号があるということは'48年のデカちゃんを描いたものであろう。強打者の風格が漂う一枚です。
            右のはまったく似てませんねぇ。ユニフォームのデザインもテキトーです。



            お、これはなかなか似ております。状態も良いし、人型に無理やり顔をはめ込んだデザインもGoodです。


            というわけで、2012年最初の「野球狂スタヂアム」は、1926年1月1日に生まれた杉山悟でした。
            本年もよろしくお願いいたします。

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