「庄」と書いて「あつし」と読む。通称は「しょう」の堀内庄

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     堀内庄(ほりうち・あつし)
    1935年生まれ
    読売ジャイアンツ(1954~’63年)
    2010年没(75歳)



    松商学園高校時代は2年の春・夏、3年の夏と3度出場。さすが春・夏合わせて50回の最多出場校、松商! しかし3度とも初戦敗退。ここんとこも松商らしい。

    巨人入団3年目の1956年には14勝4敗の.857で最高勝率のタイトル獲得。’56から’58の3年連続2桁勝利、巨人の5連覇に主力投手として貢献した。当時の巨人主力投手陣は堀内庄の他、大友工、別所毅彦、藤田元司など。

    ’78年にはヤクルトスワローズの投手コーチとして、球団史上初優勝するが、シーズン終盤の練習中に顔面に打球を受け、優勝決定時にはベンチにはいなかったという不運のコーチ。
    このときのヤクルトの首脳陣は広岡達朗・監督、森昌彦・バッテリーコーチ、堀内庄・投手コーチと、巨人の頭脳が集まっていた。




    堀内庄は2年目の’55年から「背番号10」を背負っていたが、巨人の「10」というと強打者のイメージが強い。主な「背番号10」を遡ってみると、阿部 慎之助(2001〜)ー 広沢克(1997〜’99)ー 吉岡雄二(’94〜’96)ー 駒田徳広(’88〜’93)ー 加藤英司(’86)ー クルーズ(’83)ー ホワイト(’80〜’82)ー 張本勲(’76〜’79)ー 阿野鉱二(’71〜’75)ー 高倉照幸(’67〜’68)というかんじ。
    しかし、堀内庄の他にも「背番号10」の投手は宮本洋二郎(’65〜’66)、田中章(’69〜’70)の二人いて、宮本は巨人時代2年間で2勝2敗で広島へトレード、田中は2年間で4勝3敗で西鉄ライオンズへトレード。やはり野手が付けた方が良さそうである。



    なかなか迫力のあるメンコであるが、前でバット構えてるオッサンは誰ですか? ジャイアンツでもないみたいですが。

    というわけで、10月5日は堀内庄が1935年に生まれた日、そして10月27日は昨2010年に75歳で他界した日でした。


    ’50年代、巨人5連覇に貢献した強打の捕手 藤尾茂

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       藤尾茂(ふじお・しげる)
      1934年生まれ
      読売ジャイアンツ(1953〜’65年)



      1953年に鳴尾高校から巨人入りした藤尾は、入団一年目から捕手として一軍ベンチ入り、’56年にはレギュラー捕手に定着し主に5番を打った。’59年には森昌彦の台頭で、外野手としての出場が多くなるが、’61年にはまた捕手に戻った。しかし、以降は森の控え捕手という立場に甘んじた。
      最高成績は、打率は’58年の.283、本塁打は’60年の15本、打点は’59年に挙げた70打点となかなかの強打ぶり。さらに捕手としては俊足で、二桁盗塁は3シーズンあり通算でも67個の盗塁を記録している。
      ビルマで戦死した巨人軍歴代最高の捕手といわれた吉原正嘉をダブらせて「吉原二世」と呼ばれたそうだが、私の知っている選手でいうと’80年代中日で活躍した中尾孝義が、記録から察するに似たタイプだったのかな。



      あれっ? なんか左手の親指がミットに収まってないように見えるんだが……。右手は突き指しないよう、しっかり閉じてます。今のキャッチャーは背中の後に隠すけどね。



      これは版ズレが酷い……。しかも顔のど真ん中にキズが。男前が台無しです。

      というわけで、本日10月28日は藤尾茂77歳の誕生日です。


      【ボビンヘッド その17】ウィリー・メイズ

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        ウィリー・メイズ(Willie Mays)
        1931年生まれ
        ニューヨーク・ジャイアンツ - サンフランシスコ・ジャイアンツ(1951〜’52年、’54〜’72年)/ニューヨーク・メッツ('72〜’73年)
        1979年アメリカ野球殿堂入り



        本日は"1961-62 Caricatures Baseball"シリーズからウィリー・メイズのボビン・ヘッドをご紹介。
        このメイズには肌の色で「Dark」と「Light」が存在するのですが、こちらはおそらく「Light」。肌ツヤよろし!



        通算660本塁打、1951年新人王、ゴールドグラブ賞12回、本塁打王4回、盗塁王4回の万能プレイヤー。オールスターにも20年連続出場し、ヤンキースのマントルと並び’50~’60年代のメジャーを代表する外野手。というか、歴代ベストナインに必ず入ってくる選手です。



        メイズには今も語り継がれるひとつのプレーがある。
        ’54年の対クリーブランド・インディアンスとのワールドシリーズ第1戦、2対2で迎えた8回表ノーアウト一、二塁でインディアンス・ワーツの放った大飛球はセンターを守るメイズの遥か後方へ。
        この試合が行われたジャイアンツの本拠地ポロ・グラウンズは、元々ポロ競技用に作られたもので野球をやるにはあまりにイビツ。センターのフェンスまではなんと147.2メートルもある。
        メイズは振り向くことなく落下点まで全速力で走りに走り、向こう向きで肩越しに捕球するや、素早く反転して内野に送球。ジャイアンツの絶体絶命のピンチを救った。結局この試合をサヨナラ勝ちでものにしたジャイアンツが、劣勢との下馬評を覆し4戦全勝でワールドチャンピオンに輝いた。
        このプレーは捕球の瞬間が写真に収められていたこともあり、50年以上経った今でも「ザ・キャッチ」と呼ばれ語り継がれている。



        というわけで、本日は1961〜’62年に発売された"1961-62 Caricatures Baseball"シリーズの中でウィリー・メイズをご紹介しました。
        このシリーズには、もう一種類ロベルト・クレメンテがあるのだが、生産数が少なく、オークションでたまに目にしても、ちょっと手を出しづらい高額で取引されています。もちろん持っていません。残念。いつかは……。


        【ボビンヘッド その16】ロジャー・マリス

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           ロジャー・マリス(Roger Maris)
          1934年生まれ
          クリーブランド・インディアンス(1957~’58年)/カンザスシティ・アスレチックス(’58~’59年)/ニューヨーク・ヤンキース(’60~’66年)/セントルイス・カージナルス(’67~’68年)
          1985年没(51歳)



          本日は"1961-62 Caricatures Baseball"シリーズからロジャー・マリスのボビン・ヘッドをご紹介。
          う〜ん、実際はこんなに目立つ眉毛じゃないような。



          1960年にアスレチックスからトレードでヤンキースに。マントルとのMM砲でリーグ5連覇に貢献した。

          マリスといえば何といっても’61年のベーブ・ルース越え。当時のシーズンホームラン記録はベーブ・ルースの60本。この記録は誰も超えてはならない”聖域”とされていて、ニューヨークの保守的な野球ファンたちは「マリスはルースの記録を破るのにふさわしい選手ではない(マントルならまだしも)」と言い、さらにコミッショナーも、ルースの時代と同じ154試合(マリスの時は162試合)で破らない限り「*(アスタリスク)」付きで両者の記録を併記すると言いだした。結局152試合目までに59本の本塁打を放ったものの、新記録の61号は最終164試合目で記録し、その後30年もの間ルースの60本と併記されていた。



          現在では当時の61本塁打は、1位  73本塁打:B・ボンズ (2001年)、2位 70本塁打:M・マグワイア (1998年)、3位 66本塁打:S・ソーサ(1998年)、4位 65本塁打:M・マグワイア (1999年)、5位 64本塁打:S・ソーサ(2001年)6位 63本塁打:S・ソーサ(1999年) に次ぐ7位の記録となってしまっているが、マリスよりも上位のボンズ、マグワイア、ソーサにはいずれも禁止薬物使用の疑惑が掛けられている。



          というわけで、本日は1961〜’62年に発売された"1961-62 Caricatures Baseball"シリーズの中でロジャー・マリスをご紹介しました。
          もう1種類ありますので、明日掲載したいと思います。

          【ボビンヘッド その15】ミッキー・マントル

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            ミッキー・マントル(Mickey Mantle)
            1931年生まれ
            ニューヨーク・ヤンキース(1951〜’68年)
            1974年アメリカ野球殿堂入り
            1995年没(63歳)

             

            本日は"1961-62 Caricatures Baseball"シリーズからミッキー・マントルのボビン・ヘッドをご紹介。
            う〜ん、イイ顔してます!



            ミッキー・マントルといえば、ベースボールものコレクターの間ではベーブ・ルース、ジョー・ディマジオと並んで最も人気のある選手。
            私もマントルものを見つけると心躍るコレクターのひとりで、これは渋谷のバックドロップが2階でスポーツ・メモラビリアを販売していた頃に、「売り物ではない」と言われた店長の私物のボビン・ヘッドを必死に拝み倒して売ってもらった一品。
            状態も良く、最も気に入っているコレクションのひとつ。



            マントルはヤンキースひと筋の1950〜’60年代を代表するスラッガー。
            通算536本の本塁打を放っているが、’53年4月17日グリフィス・スタジアムでの対ワシントン・セネタース戦で放った本塁打は驚愕の一本。スタンドの遥か上空を越え場外へと飛んだ打球は、巻尺で距離を測ったところ、なんと172メートル! 正式に測られた本塁打としては現在でもメジャー記録。この本塁打は「テープメジャー・ショット」として語り継がれている。
            しかし、これは落下してから転がった距離も含まれているとの説もあり、’63年5月22日対アスレチックス戦でヤンキースタジアムのライト最上部の鉄傘に当った本塁打の方が飛んでいたとも言われている。本人もこちらヤンキースタジアムでの本塁打の方を「野球人生で最も強烈な打球だった」と語ってる。



            というわけで、本日は1961〜’62年に発売された"1961-62 Caricatures Baseball"シリーズの中でミッキー・マントルをご紹介しました。
            あと2種類ありますので、順次掲載していきます。


            黎明期を支えた史上最初の300勝投手 スタルヒン

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              ヴィクトル・スタルヒン(Victor Starffin)
              1916年生まれ
              大日本東京野球倶楽部 - 東京巨人軍(1934~’44年)/パシフィック - 太陽ロビンス(’46~’47年)/金星スターズ - 大映スターズ(’48〜’53年)/高橋ユニオンズ(’54~’55年)
              1957年没(40歳)
              1960年野球殿堂入り



              1925年スタルヒン9歳、ロシア革命のときに一家で日本に亡命、無国籍の「白系ロシア人」として過ごすこととなる。
              旧制旭川中学3年の時に中退して全日本チームに加わり、そのまま後身の東京巨人軍に入団。同学年の沢村栄治とともに黎明期のプロ野球を支えた。

              ’39年には日本記録のシーズン42勝(後に稲尾和久も42勝をあげる)。この年史上初の通算100勝を達成。しかも165試合目で達成という史上最速記録。
              ’40年には戦時下で「須田博(すだ・ひろし)」と改名させられる。戦争が激化した’44年、巨人軍は「敵性人種」とされたスタルヒンを球界から追放した。

              ’46年にプロ野球が再開されると、巨人軍の誘いを断り藤本定義率いるパシフィックに入団。この年史上初の通算200勝達成。’55年には高橋ユニオンズで、これも史上初の通算300勝を達成し、同年引退した。

              ’57年、40歳の時に自身が運転する自動車が電車と衝突。即死だった。




              これはイイ顔です。色彩も美しい。おそらく’51〜’53年頃のメンコで、スタルヒン35~36歳頃を描いたものと思われます。



              こちらのダイカット・メンコはユニフォームから察するに’49~’50年のスタルヒン。



              こちらはちょっと残念なスタルヒン。色彩はキレイなのですが表情がどうも……。ただ「Sutaruhin」のローマ字表記はイカス!



              ’49年オドール監督率いるサンフランシスコ・シールズが来日。オール日本と7戦行い、シールズの全勝だった。中日・西沢、大阪・別当、シールズの選手とのアンカット版。

              というわけで、10月20日は1946年にパシフィックのスタルヒンが史上初の通算200勝を達成した日でありました。スタルヒンはその後’55年まで投げ、通算303勝を挙げた。

              史上初の両リーグ首位打者 江藤慎一

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                江藤慎一(えとう・しんいち)
                1937年生まれ
                中日ドラゴンズ(1959〜’69年)/ロッテオリオンズ(’70〜’71年)/大洋ホエールズ(’72〜’74年)/太平洋クラブライオンズ(’75年)/ロッテオリオンズ(’76年)
                2008年没(70歳)
                2010年野球殿堂入り




                今シーズン、ソフトバンク・内川聖一が史上人目のセ・パ両リーグでの首位打者を獲得することが確定した。
                今から遡ること40年前の1971年、ロッテの江藤慎一が中日時代の2度の首位打者に続き、パ・リーグでも首位打者に。両リーグでの獲得はこれが史上初であった。

                江藤は入団1年目から6年連続で全試合出場、3年目からは中日の不動の4番打者に。’64、’65年には2年連続で2位の王貞治を抑え首位打者に輝き、両年とも本塁打、打点でタイトルを獲った王貞治の三冠王を阻止した。



                江藤は入団と同時に一塁、外野手にコンバートされているが、'63年までの5年間捕手も務めた。



                このメンコの写真、アンダーシャツがえび茶色で彩色されているが、モノクロ写真に着色されたものなので実際の色はわからない。中日がえび茶色のアンダーシャツだったのは’60,’61年の2年間。ただ、そのときのユニフォームは袖にラインが入っていて、胸マーク、帽子もえび茶色だった。帽子のマークもそのときのものではないので、想像するに’56~’59年に使用されていたユニフォームではなかろうか。となると、実際のアンダーシャツノ色は紺色ということになる。’59年、江藤慎一が新人の年のルーキー・カードの可能性大。

                ということで、10月16日は江藤慎一が1937年に生まれた日でありました。




                元スポーツ選手キャスターの先駆け 佐々木信也

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                  佐々木信也(ささき・しんや)
                  1933年生まれ
                  高橋ユニオンズ(1956年)/大映ユニオンズ(’57年)/大毎オリオンズ(’58〜’59年)



                  「プロ野球ニュース」が始まったのは私が中学1年のとき。画期的でした。
                  この番組で初めて動いている姿を見たパ・リーグの選手も数多くいたもんです。
                  その「プロ野球ニュース」のキャスターを長年務めた佐々木信也は、慶応義塾大学から3年間でいちども勝率4割を超えられなかった弱小チーム、高橋ユニオンズの最終年に入団。この高橋ユニオンズは観客動員数もダントツで少なく、3年間の観客動員数が巨人ー阪神戦の9試合分くらいしかなかったとか。草野球並みです。

                  先日白夜書房から長谷川 晶一/著最弱球団 高橋ユニオンズ青春記 」が刊行された。
                  本来ならこのブログを書く前に読んでおかねばならなかったんですが、まだ読みかけの本が溜まっていてページを開けていません……。一気に読めそうなんで今週末に読むことにしよう。




                  このメンコは高橋ユニオンズ解散後の大映ユニオンズ時代、佐々木信也24歳のころ。



                  ありました! 佐々木信也のルーキーカード! これが1956年の高橋ユニオンズのホーム・ユニフォームです。黒の文字に山吹色の縁取り、帽子とアンダーシャツは黒でストッキングはあずき色と山吹色のツー・トーン。


                  というわけで、先週10月12日は佐々木信也78歳の誕生日でありました。

                  「1試合で満塁本塁打2本!」飯島滋弥

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                     飯島滋弥(いいじま・しげや)
                    1918年生まれ
                    セネタース - 東急フライヤーズ - 急映フライヤーズ(1946〜’48年)/大映スターズ(’49~’54年)/南海ホークス(’55年)
                    1970年没(51歳)



                    主に一塁と外野を守り、ベストナイン3回、首位打者1回の大映スターズ主軸打者であった飯島滋弥。

                    ’55年に引退しておりますので、’60年代生まれの私はもちろん見たことがないわけですが、資料を調べてみると恐ろしい記録が!
                    大映スターズ時代の1951年10月5日対阪急戦で初回に満塁本塁打を放つと、
                    7回に満塁本塁打と3ランの1イニング2本塁打、計3本塁打で、1試合2本の満塁本塁打(日本記録)! 1試合11打点(日本記録)! 1イニング7打点(日本記録)! 凄すぎます!!

                    1試合2本の満塁本塁打は、2006年に巨人・二岡智宏が2打席連続で打つまで54年5ヶ月間、達成者はいなかったらしいが、二岡が2打席連続で満塁本塁打を打った記憶が蘇らない……。そうか、この日の二岡も計3本塁打、打点は惜しくも飯島に及ばず10打点、って、二岡も凄いな。改めて。



                    スターズの胸のロゴ、微妙なバランスで……なんか魅かれる。



                    このユニフォームはおそらく’49~’50年のもの。モノクロ写真に着色してあるのでこの色は正確ではないが、帽子は赤、アンダーシャツは紺、赤、白の使い回し、ベルトは実際は茶色で、ストッキングは白に赤のライン。当時としては派手で格好イイ! しかし、選手たちの間では「派手で恥ずかしい」との声が多数だったらしい。



                    このメンコは’48年の1年だけ存在したチーム「急映」となっているので、その年のモノかと。貴重かな? そうでもないか。


                    というわけで、10月11日は1918年に飯島滋弥が生まれた日でありました。

                    西鉄黄金時代の五番打者 関口清治

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                       関口清治(せきぐち・せいじ)※本名は「きよはる」

                      1925年生まれ
                      読売ジャイアンツ(1948年)/西日本パイレーツ(’50年)/西鉄ライオンズ(’51〜’61年)/阪急ブレーブス(’62〜’63年)
                      2007年没(81歳)



                      台湾出身の関口は、台北工業時代の1942年に甲子園で行われた全国中等学校野球大会に出場している。この大会は戦時下で前年中止になっていた甲子園大会を、朝日新聞ではなく文部省が主催して行われた大会で、別名「幻の甲子園」と呼ばれている。
                      この大会の様子は、文藝春秋発行の「〜昭和十七年の夏〜 幻の甲子園 〜戦時下の球児たち〜」(早坂隆/著)に詳しく描かれているが、そこには以下のような記述が

                      >
                       「関口は性格も豪快でしたが、打撃もそのまんま。とても豪快でした。ただ、カーブには弱かったんですがね」
                       関口と言えば、戦後のプロ野球では「カーブ打ちの名人」と言われた人物である。その関口が中等学校時代は「カーブに弱かった」という。当時のチームメイトからの貴重な証言である。
                      >

                      そうだったのか。どこで開眼したんだろ?

                      あと、ジャイアンツにテスト入団して、肩を壊して1年で退団。社会人経由でプロ野球に戻ってきたことも今回初めて知りました。



                      あ、赤瀬川準の『獅子たちの曳光〜西鉄ライオンズ銘々伝』に「カーブ打ちは偶然コツを掴んだものだから、教えることが出来ない」って記述があるようだ。いったい何時何処で掴んだ?!



                      私の記憶は近鉄のコーチ、監督の関口。そしてプロ野球ニュースにも出ていたような……。


                      これは上と同じ写真を使ったメンコだが、こちらはタイガース時代の田宮謙次郎とのツー・ショット。アンカット版です。


                      そんなわけで、10月9日は関口清治が1925年に生まれた日でありました。

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