なんか地味なメンコしかないんだよなぁ、ノムさん。 野村克也

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     野村克也(のむら・かつや)
    1935年生まれ
    南海ホークス(1954~’77年)/ロッテオリオンズ(’78年)/西武ライオンズ(’79~’80年)
    1989年野球殿堂入り



    通算試合出場数歴代1位、しかもポジションは過酷な捕手! 通算安打歴代2位(1位は張本勲)、本塁打、打点、塁打数も歴代2位(1位はいずれも王貞治)。素晴らしい成績を収めた球史に残る名選手でありながら、現役時代の人気はあまり実力と比例していなかったような……。
    もちろん引退後の監督、解説者としての人気は周知のとおりですが。


    巨人・藤尾捕手とのツーショット。なぜかノムさんの部分だけ皺くちゃ。当時の持ち主のノムさんに対する愛着の無さがそうさせたのか……



    大きく顔がデザインされた杉浦忠投手の前で、小さく必死に走っているのはノムさんでは? う〜ん、ノムさんに見えるが、どうだろう? 違うかなぁ?



    もうちょっとカッコいい構えはできないもんだろうか。ノムさんが子供たちに人気があったら、キャッチャーをやりたいっていう昭和の少年たちももうちょっといただろうに……。う〜ん、冴えない。

    そんなわけで、昨日6月29日は野村克也76歳の誕生日でした。

    【ボビンヘッド その7】ニューヨーク・メッツ

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      ニューヨークのクイーンズを本拠地に、1962年ナショナルリーグ球団拡張に伴い誕生した比較的新しい球団。
      ’57年までニューヨークに本拠地を置いていたジャイアンツのオレンジと、ドジャースのブルーをチームカラーにし、帽子のNYマークもジャイアンツが使用していたものと同様のデザインでスタートしたが、初年度はなんと40勝120敗! それからもしばらくは100敗以上というお荷物っぷり。
      しかし、’69年に100勝62敗で地区優勝、そしてナ・リーグチャンピオン、ワールドシリーズでもオリオールズを4勝1敗で下しワールドチャンピオンに! この年の快進撃はミラクルメッツと呼ばれた。



      メッツといえば私と同世代の2人、ダリル・ストロベリー(’83年新人王)とドワイト・グッデン(’84年新人王)の二人が私の中に強烈な印象を残しましたねぇ。色々な意味で……。
      ストロベリーは’62年生まれの外野手で、’88年には39本で本塁打王に輝き地区優勝に貢献。その後ドジャース、ジャイアンツと移籍するが、’90年に夫人をピストルで脅し逮捕。’93年にガールフレンドを殴って逮捕。’94年に試合を勝手に欠場、夜まで行方不明となりドジャースを解雇。’95年コカイン陽性反応でジャイアンツを解雇。’99年おとり捜査に引っ掛かり逮捕。2000年再びコカイン陽性反応で1年間出場停止。この年癌による腎臓摘出手術を受ける。そして鎮痛剤を飲んで車を運転し、意識を失い交通事故。現行犯逮捕……。
      一方グッデンは’64年生まれの投手。速球とカーブで三振の山を築き「ドクターK」の愛称が付けられた。しかし、こちらも問題が多く、’87年コカインの陽性反応。’91年にレイプの疑いで起訴され、’94年に再びコカイン陽性反応……。引退後も昨年の3月に車で衝突し逮捕されるまで、毎年のようにドラッグ、暴行、事故で逮捕されていました。



      このマスコットの名は“Mr.MET”。
      METSというチーム名は1880年代に存在したニューヨーク・メトロポリタンズを元に付けられた。



      何に座ってるのか? なんかお尻から太いのが出てきちゃってるようにも見えますね。

      このボビンヘッドは1965~’72年の間製造された"Round gold bases"という種類のものです。

      アメリカ人で唯一人の殿堂入り 与那嶺要

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         与那嶺要(よなみね・かなめ)
        1925年生まれ
        読売ジャイアンツ(1951~’60年)/中日ドラゴンズ(’61〜’62年)
        1994年野球殿堂入り
        2011年没(85歳)



        “ウォーリー”与那嶺は、アメリカ仕込みの激しいスライディング、アメフト出身選手らしい捕手へのタックルなど、当時はおとなしい野球をしていた日本プロ野球に新風を吹き込んだ。
        主に1番打者としてMVP 1回、首位打者3回、ベストナイン7回と大活躍し、巨人の第2期黄金時代を川上、千葉、青田らと担った。
        ホームスチール11回という恐ろしい記録を持つ。



        メガネをかけて優しそうに見える与那嶺だが、敵対していた川上哲治のことになると非常に熱くなったようだ。1974年、中日の監督として川上率いる巨人のV10を阻んだときは「とうとう哲をやっつけたよ!」と大はしゃぎだったとか。
        敵対の原因は川上が監督就任と同時に巨人を解雇されたことのようです。
        私たち世代には中日監督時代、片言の日本語でインタビューに答えるやさしい“ウォーリー”が印象に残が、結構執念深い人だったんですね。
        「チックショ〜! 哲のヤロ〜!」


        同じ写真を使用して違った雰囲気に仕上げた2枚。左のピンクのバックは与那嶺の雰囲気によく似合う

        今年の2月28日に惜しくも亡くなられた“ウォーリー”ですが、3月11日の震災で延期になっていたお別れの会も5月27日に行われ、多くの球界関係者が分かれを惜しんでおりました。

        というわけで、ちょっと遅くなりましたが、6月24日は1925年に与那嶺要が生まれた日でした。

        【ボビンヘッド その6】テキサス・レンジャーズ

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          昨日は2代目ワシントン・セネタースのボビンヘッドをご紹介しましたが、本日はそのセネタースが1972年にテキサスに移り、レンジャーズと名を変えた頃のボビンヘッドを。
          これは"Round gold bases"という1965年〜’72年に製造された種類なので、レンジャーズが出来た’72年に発売されたものかと。



          テキサスといえばカウボーイ! このボビンヘッドもテンガロンハットを被りモミアゲを伸ばした、なんともアメリカンな一体に仕上がっております。




          レンジャーズといえば、テキサス出身でメジャー最後の4年間レンジャーズに在籍し、’90年に6度目の’91年44歳で7度目のノーヒッターを記録した"The Express(超特急)"ノーラン・ライアンが真っ先に浮かびます。真っ先に浮かびますっていうか、あとは2000年にマリナーズをFAになったアレックス・ロドリゲスと総額2億5,200万ドルという破格の契約を結んだことと、建山義紀が在籍していることくらいしか浮かびません……。あ、”パッジ”ことイバン・ロドリゲスやホワン・ゴンザレスのプエルトリカン・コンビが活躍した時期もありましたね。失礼いたしました。




          ノーラン・ライアンは、現在レンジャーズの経営陣にも名を連ねております。

          【ボビンヘッド その5】ワシントン・セネタース

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            今回は1961年から’71年まで存在した、ワシントン・セネタースのボビンヘッドをご紹介。
            これは’62~’64年の間に製造された"Green"という種類ですので、1901年から’60年まで存在したワシントン・セネタースがミネソタに移りツインズとなったのと入れ替えに新たに出来た球団、現在のテキサス・レンジャーズの前身の方の2代目セネタースということになります。



            この胸マークの書体は1961と’62年に使用されていたもの。それ以外の年は筆記体のマーク



            セネタース時代のトピックといえば、あの“打撃の神様”テッド・ウィリアムズを1969年に監督に迎えたことでしょう。この年球団創設以来初めてのシーズン勝ち越しとなりましたが、翌年からはまた負け越しが続き、’72年にテキサスに移ってレンジャーズとなった年までの4年間の勝率は.429でした



            あ、あとセネタースといえば、後に来日して太平洋クラブライオンズに在籍することになるフランク・ハワードを忘れちゃいけませんね。’68年と’70年に本塁打王、’70年は打点王との二冠に輝いております。ただ、メジャー通算1774安打、382本塁打の元スラッガーは、日本では開幕戦に出たのみで通算3打席、2打数ノーヒットの成績を残し5月には帰っちゃいました……。とほほ



            これも帽子に若干のカビが。しかも後頭部にヒビが入ってますね……


            ということで、今回はミネソタ・ツインズの前身の方ではなく、後にテキサス・レンジャーズとなる2代目ワシントン・セネタースのボビンヘッドでした。



            「喝っ!」今やすっかりご意見番 張本勲

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               張本勲(はりもと・いさお)
              1940年生まれ
              東映フライヤーズー日拓ホームフライヤーズー日本ハムファイターズ(1959~’75年)/読売ジャイアンツ(’76~’79年)/ロッテオリオンズ(’80~’81年)
              1990年野球殿堂入り



              日本プロ野球界で最も多くのヒットを打った選手で、その数3085本! 
              通算3000本以上打った唯一の選手であります。


              それにしても張本のジャイアンツ移籍が決まった時は驚きましたねぇ。
              昨年までパ・リーグを代表する強打者が王さんとクリーンアップを組む! 
              どうなっちゃうんだジャイアンツ! 夢のような打線じゃないですか!
              日本代表チームじゃないっすか! ショートは河埜だけど。
              当時5年生だった王さん信者の私は興奮を抑えられんかったです。そりゃあ、ずっと優勝していた贔屓球団が昨年はまさかの最下位だったんですからね。
              そして見事に前年最下位からの優勝、OH砲が炸裂した1976年でした。あっぱれ!!



              入団1年目に115本のヒットを放ち、13本の本塁打。同い年の巨人・王貞治が苦戦していたのとは対照的に見事新人王。2年目に初の3割以上、3年目には首位打者と10代から大活躍のハリさんでした



              このユニフォームは’60年までのデザインであることから、新人の年か2年目のハリさんと思われる。「高校時代、広島に残っていたらヤクザになっていたと思う」と本人が語ってたとおり、10代ですでに凄みがみなぎる面構え


              というわけで、昨日6月19日は張本勲72歳の誕生日でありました。

              巨人・阪神両球団で中心選手 呉昌征

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                 呉昌征(ご・しょうせい)
                1916年生まれ
                東京巨人軍(1937~’43年)/阪神軍ー大阪タイガース(’44年、’46〜’49年)/毎日オリオンズ(’50~’57年)
                1987年没(70歳)
                1995年野球殿堂入り



                巨人、阪神両球団で主力として活躍した選手は小林繁投手くらいしか思い浮かばないが、呉はその両球団で活躍した珍しい選手でありました。
                1937年に巨人に入団し、’42年と’43年に連続首位打者。ただ’42年は.286という史上最低の首位打者打率である。
                ’44年には阪神へ金銭トレードされ、その年盗塁王。’46年には投手不足ということで27試合に登板し、見事14勝!

                私が記憶している呉昌征は、巨人ー阪神OB戦でゲストとして実況席に座っていた姿。おそらくその日フィールドにも立っていたと思うのですが、残念なことにその記憶は残っていません。父親に呉の選手時代の話しを聞いたのもそのときだったような。



                表記は「毎日」ですが、写真は阪神時代の丸メンコ

                というわけで、昨日6月16日は1946年に本職は外野手の呉昌征(阪神)が、対セネタース戦に登板し、見事ノーヒットノーランを記録した日でありました。

                【ボビンヘッド その4】シカゴ・カブス

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                  今日ご紹介するのは1965~’72年の間製造されていた"Round gold bases"という種類。子熊のマスコットが愛らしい、シカゴ・カブスのボビンヘッドです。

                   
                  カブスは1871年創設の老舗球団。ナショナル・リーグ制覇が16回という古豪ではありますが、最後にワールドチャンピオンになったのは1908年、なんと、100年以上も経ってしまいました。トホホです。
                  1916年から使用しているカブスの本拠地リグレー・フィールドは、メジャー屈指の美しいスタジアム。レンガ造りの外野フェンスには蔦が絡まり、シカゴの条例でナイトゲームの日数が制限されているため、平日でもデイゲームが多く、近所の商店のおっさんが店を抜け出して観にきているようなフィールドなのであります。

                  イニングの合間にリグレーの暗い通路でホットドッグを買ったら、通路の反対側のテーブルに置かれた鉛筆削りのようなマシンを自らの手で回してタマネギのみじん切りをたっぷりと乗せる。そいつを持って明るいスタンドに戻り席を探していると、自分の席のそばのおっさんが「ヘ〜イ! ジャパニ〜! こっち、こっち〜!」と大声で手招きしてくれます。もちろん英語で。
                  私が経験した平日デイゲームのリグレーはそんな天国のような場所でありました。


                  胸のマークは1937年にはほぼこの形になり、マイナーチェンジのみで現在に受け継がれている


                  歴代のカブスで好きなプレイヤーは、文句無しに“Mr.Cub”アーニー・バンクスですね。あとは、ライン・サンドバーグ、マーク・グレース、若い頃のスリムなサミー・ソーサ……。あ、今は亡き実況アナのハリー・ケリーも忘れてはなりませんね。さ〜あ、皆さんご一緒に〜! "♪Take me out to the ballgame〜"


                  やはり、"Round gold bases"は日本製だけあって仕事が丁寧ですね


                  【ボビンヘッド その3】セントルイス・カージナルス

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                    今回はセントルイス・カージナルスのボビンヘッドを。

                    カージナルスはワールドシリーズ10回制覇の名門。
                    このチームに在籍した名プレイヤーを列挙すると、
                    ・ロジャース・ホーンスビー
                    ・ディジー・ディーン
                    ・レオ・ドローチャ
                    ・ジョニー・マイズ
                    ・スタン・ミュージアル
                    ・ボブ・ギブソン
                    ・ケン・ボイヤー
                    ・ルー・ブロック
                    ・スティーブ・カールトン
                    ・オジー・スミス
                    ・マーク・マグワイア
                    そして、現役の強打者アルバート・プホルスなどが挙げられるが、この中でもカージナルスを代表する選手といえば、スタン“ザ・マン”ミュージアルであろう。

                    スタン・ミュージアルは1941〜’63年までカージナルス一筋の外野手。
                    MVP3回、首位打者7回、打点王2回、通算安打は3630本(歴代4位)。
                    人格者として知られ、愛称は"The Man"。男の中の男ってことですな。



                    ちょっとシャイなポーズをとるこの人形、静岡は遠州地方の方言で言うところの「おすんばあ」ってやつですな



                    あら、こっちから見ると藪睨みで凄み効かせてます



                    あらら、失恋でもしたんでしょうか? すっかり落ち込んじゃってます



                    あー、首のバネがイカレちゃってますね。もうガックリって感じです


                    ってなわけで、今回は1961~’62年に製造された"Square white bases"のカージナルスでした。

                    【ボビンヘッド その2】ボルチモア・オリオールズ

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                      今回の一品はキュートなボビンヘッド。
                      1961~’62年の間に製造された"Square white bases" シリーズのオリオールズ。
                      現在のオリオールズのマスコット「Orile Bird」はくちばし以外真っ黒で忍者のようなアクティブスタイルですが、この当時のものは色合いも明るくオールド・アメリカンな香りが漂う
                      、私お気に入りの一品でございます。
                      お気に入りのわりには帽子のところにちょっとカビが…。



                      オリオールズの名プレイヤーといえば、カル・リプケンjr、エディ・マレー、フランク・ロビンソン、ジム・パーマーなどの名前が挙がりますが、私の中の一番のスター・プレイヤーは“人間掃除機”ブルックス・ロビンソン三塁手。1970年の対レッズとのワールドシリーズMVP。レッズのスパーキー・アンダーソン監督は「ロビンソンひとりに負けた」と、何度もヒットを阻まれた三塁守備に地団駄を踏んだもんです。
                      まあ、私は当時6歳ですので、リアルタイムで覚えているわけではございませんが。



                      後頭部の塗りの甘さもまたアメリカン・スタイル!





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