【野球のゲーム9】別当薫が描かれた野球ゲーム

0



    1940年代後半から’50年代に掛けて非常に人気のあった別当。数多く存在するメンコなどはまた次の機会にご覧頂くとして、今回はこの「野球ゲーム」。これは’48年か’49年、別当が慶応大から阪神に入団したころの姿が描かれた商品。


    説明を読むと、「投球」「打撃」「守備」の専用のサイコロを振って進行していくゲームらしいが、残念ながらそのサイコロは無い。ただ、それ以外のものはキレイな状態で残っている


    なんともかわいらしい人形。ゲームの進行上これだけの数は必要ないように思うが、一応守備位置に選手を置くんだな、きっと。チェンジの度に面倒くさいな。「自分で背番号を書くなどすると楽しい」と説明にはある


    球団名に「東急」が入っているところをみると’49年の商品かな

    というわけで、本日は別当薫の姿が描かれた「野球ゲーム」のご紹介でした。


    「ガハハハ〜!」豪快な笑いが懐かしい 別所毅彦

    0
       別所毅彦(べっしょ・たけひこ) 旧名及び本名は昭(あきら)
      1922年生まれ
      南海ー近畿グレートリングー南海ホークス(1942~’43年、’46〜’48年)/読売ジャイアンツ(’49~’61年)
      1979年野球殿堂入り
      1999年没(76歳)


      1948年オフ、巨人が南海から別所を強奪した「別所引き抜き事件」は有名だが、これには伏線があり、別所は日大在学中に巨人と入団契約を交わしたが、母と兄は地元の南海と契約していまい、結局南海に入団することとなった。ジャイアンツが好きだったんだろうなぁ。
      これが後に巨人の選手の名前しか知らない「巨人贔屓解説者」を創り上げる伏線にもなってたんですね。


      南海時代、おそらく’48年に撮影されたブロマイド。26歳の南海のエース別所


      投手でありあがら通算500本安打、35本塁打という数字には驚かされる。バットを持つと思わずニヤケてしまう別所です


      毅彦と名乗る前のホークス・別所昭。色彩が美しいメンコ


      というわけで、本日5月26日は’43年に別所昭(後・毅彦)が南海時代に対大和戦でノーヒットノーランを記録した日であります。ちなみに次の登板となった5月30日にも大和相手に1安打完封、あわや連続ノーヒッターかという快投を演じている。




      ミスタータイガース 藤村富美男

      0
         藤村富美男(ふじむら・ふみお)
        1916年生まれ
        大阪タイガースー阪神軍ー大阪タイガース(1936~’38年、’43~’56年、’58年)
        1974年野球殿堂入り
        1992年没(75歳)


        なんとも絵になる。後にも村山、田淵、掛布などが「ミスタータイガース」と呼ばれた時期があったが、ファンや関係者の間では「ミスタータイガースは藤村だけ」とする意見も多く、別格の存在。
        1936年プロ野球創設初年度、タイガース入団時は投手。しかしながら’36年秋にプロ野球初代の本塁打王! まあ、2本ですけど。
        翌年から二塁手に転向、戦後は三塁手にコンバート、このころから4番に座り史上初の40本塁打を放つなど、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回と「ダイナマイト打線」を牽引した。


        折れ目が付いてしまっているがキレイなデザインのメンコ


        これは今阪神が復刻して着用している’48~’49年のユニフォーム。ストッキングはこの〈白・黒・黄・赤〉と今シーズン着用している〈黄・黒〉、その他にも昨年復刻した〈グレー・紺〉があったようだ。アンダーシャツも白、紺、黒、あずき色の4種類を使い分けていたようです。しかし、この写真はバットの長さが際立っています。これが「物干し竿」と呼ばれた藤村の長尺バット。豪快だ


        金星時代のスタルヒン対藤村の勝負を撮ったブロマイド。構図は今ひとつですが藤村の一瞬の表情をとらえた素晴らしい一枚


        というわけで、本日5月25日は’50年に藤村が史上初の2度目のサイクルヒットを記録した日であります。’48の1度目は日本プロ野球で最初に記録されたサイクルヒットでした。

        ’70年代ブレーブスの3番打者・加藤英司

        0
           加藤英司(かとう・ひでじ)、1978年まで秀司(読み同じ)
          1948年生まれ
          阪急ブレーブス(1969〜’82年)/広島東洋カープ(’83年)/近鉄バファローズ(’84~’85年)/読売ジャイアンツ(’86年)/南海ホークス(’87年)


          私が少年時代の阪急ブレーブスお得意パターンといえば、1番・福本が出て盗塁、2番・大熊が送りバントで3番・加藤の犠牲フライで初回あっさり1点。強かった〜。


          【カルビープロ野球カード#90】
          カード裏面には「守備は王より上手いと言われることもある。」とある。ゴールデングローブ賞は’75年から3年連続で受賞している


          【’73カルビープロ野球カード#256】
          このカード裏面には「人のアダ名をつける名人というチャメッ気もある好選手」と書いてある。誰にどんなアダ名を付けたのか気になるところだが本人のアダ名は「茶」。もちろん加藤だからだが、名人としてはこんな安直なアダ名で納得してたんだろうか?


          1968年ドラフトで阪急は、後の中心選手1位の山田久志、2位の加藤秀司、さらに7位で福本豊の3人を獲得しているのだから、当時のスカウトは天晴れですね。

          というわけで、本日5月24日は加藤秀司63歳の誕生日です。


          【野球のゲーム8】ジョージ・ブレットの野球ゲーム

          0
             

            このゲームはNYの蚤の市で10年ほど前に購入したもの。おそらくジョージ・ブレットが全盛の’80年代のモノではないかと。まだビニールでパックされたデッドストックの状態で手に入れた。
            ジョージ・ブレットは1973〜’93年までカンザスシティ・ロイヤルズひと筋、通算安打3154本の三塁手。ロイヤルズ史上最高のスタープレイヤーで、現在は球団副社長。
            ジョージ・ブレットといえば松ヤニがベットリと付いたバットがトレードマーク。この松ヤニが規定よりも先端の方まで塗られていることに以前から気づいていたヤンキース監督のビリー・マーチンは、最も効果的な場面で講義しようと、なんと、9回にブレットに逆転ホームランを浴びた時に審判に抗議。一時はこの抗議が認められホームランは取り消しでブレットはアウトとなったが、後に裁判でホームランは認められ、逆転後の9回表2アウトの場面から後日試合をやり直すという事件が起こった。’83年の「パインタール・バット事件」として語り継がれる出来事です。


            ゲーム自体はサイコロの出目でゲームを進めていく地味なもの。ただ、アメリカのこの手のゲームは非常に細かく設定されており、今でも自分で考えた野球の確率をゲームにして遊んでいるマニアが多くいるらしい。アメリカ人は野球の試合がはじき出すあらゆる数字を計算したり、その計算結果が意味することを考えるのが本当に好きなのである。まあ、日本人の私も同類なのだが。

            本日は王さんの誕生日

            0
              王貞治(おう・さだはる)
              1940年生まれ
              読売ジャイアンツ(1959〜’80年)
              1994年野球殿堂入り



              今さらここで王さんの経歴を語るのも野暮なんでやめときます。
              王さんが最初に本塁打王になったのが1962年、それから13年連続のキング、三冠王が2回。
              私が生まれてからはずっと本塁打王だったので、それが当り前だと思っていた子どもの頃。
              ’75年にその座を田淵幸一に奪われた時は現実を受け止めきれず、友人と泣きながら全速力で自転車を漕いだもんです。
              バカな5年生でした。


              メンコは発行年がはっきりしないものが多いですが、これは裏面のポジションが「投手」となっているので、おそらく入団年のルーキーカードではなかろうか


              これはなぜか「外野手」と記されている。まあ、写真はおもいっきり一塁手ですけど。実際に外野を守ったのは’77年に2試合記録されているのみ


               
              これは王さんが理事長を務める「世界少年野球推進財団」から発売されたフィギュア。なかなか出来の良い一品


              ジョー・ディマジオ(左)、ウィリー・メイズと収まった写真に直筆サイン入り。メジャー・リーグのカージナルスに真剣に誘われたこともあったらしいが、メジャー挑戦していたらどれくらいの成績を残せただろうか? トム・シーバーとの対戦なんか見てみたかったな、と空想してみる


              というわけで、本日5月20日は王貞治71歳の誕生日です。

              【野球のゲーム7】遊び方がさっぱりわからんアメリカ製

              0

                「Electric baseball game」という代物。アメリカのオークションで手に入れたが、説明書が無くどうやって遊ぶものかさっぱりわからん一品。なぜこれに入札したんだろ?


                電源が入れば何かが動くんだろうが…。こんだけキレイなのにウンともスンとも。あと、盤の上に放置してある謎の赤い部品2つ。ランナーは自動で動きそうな雰囲気プンプン


                わからんな〜、さっぱり。バッターの人形板はご丁寧に左右打席が替えられる。ここは手動


                う〜ん、さっぱりわからん。誰か教えてください

                ライオンズ一筋! 愛称は「トンビ」東尾修

                0
                   東尾修(ひがしお・おさむ)
                  1950年生まれ
                  西鉄ライオンズ - 大西洋倶楽部ライオンズ - クラウンライターライオンズ - 西武ライオンズ(1969〜’88年)
                  2010年野球殿堂入り


                  入団の年に起きた「黒い霧事件」でエースの池永正明らが球界から追放され投手不足となり、チャンスが回ってきた東尾は、翌’70年からフル回転し、弱小球団のエースとして奮闘。生涯で最多敗戦の年が5回、中でも’72年はなんと41試合も先発して25敗(18勝)! 恐るべし。
                  初優勝は西武になってからの’82年。ここからは常勝球団の投手陣のリーダーとして活躍。
                  内角を突く強気のピッチングスタイルでデッドボールも多く、通算165個は日本記録。’86年にデッドボールを与えたデービス(近鉄)に殴られた場面は、当時のパ・リーグとしては珍しく全国中継されていて大きな波紋を呼んだ。


                  「ヤング太平洋の星」! 当時23歳の東尾


                  「目標、敗戦減少 東尾投手」この年まで4年間1度も勝ち越せていなかった東尾の切実なる目標


                  裏は重ね刷り(ミスプリント)されていて見づらいが、「最近はシンカーもおぼえて円熟したピッチングをみせるようになったまだまだ伸びる成長株」このとき23歳で円熟のピッチング


                  というわけで、本日5月18日は東尾修61歳の誕生日です。


                  【野球のゲーム6】エポック社の野球盤 初期モデル

                  0
                     


                    1959年に1,850円で発売された「野球盤A-2型」。前年に発売されたエポック社最初の野球盤とほとんど同じデザインの改良型。残念ながら守備の駒がひとつ足りないが、なかなかの良品。
                    これは事務所スタッフがアンティークショップで見かけ、購入してくれた一品。もちろんプレゼントしてくれたわけではない。


                    前作から改良された点はスコアボードに旗が立ったことと、カーブ、シュートの変化球機能が付いたこと


                    当然のことながら、「消える魔球」機能はまだ付いていない


                    この手作り感! 人形はまんまコケシです。「Central」と「PACIFIC」の胸マーク。オールスター戦だったんですね

                    エポック社の野球盤は、現在まで改良を重ねながら人気を保っていますが、基本的な遊び方はこの初期盤とあまり変っていないのには驚きますね。
                    50年以上経ってるのにね。

                    王貞治から三振を。阪神のエース・江夏豊

                    0
                       江夏豊(えなつ・ゆたか)
                      1948年生まれ
                      阪神タイガース(1967~’75年)/南海ホークス(’76~’77年)/広島東洋カープ(’78~’80年)/日本ハムファイターズ(’81~’83年)/西武ライオンズ’84年)




                      1960年代後半から’70年代前半の阪神のエースといえばこの人、江夏豊。
                      阪神時代に最多勝2回、最優秀防御率1回、沢村賞1回、20勝以上が4回で最高は2年目の’68年の25勝。この年の完投は26試合! そして’68年の401奪三振(現在もダントツの最高記録)を含め、6年連続の奪三振王。
                      圧倒的な阪神のエースだった江夏だが、監督とソリが合わなかったり、血行障害や心臓疾患、また太り過ぎなどで成績が下降、’76年ついに南海へトレード。
                      ここから南海ー広島ー日ハムと続くリリーフ・エースとしての第二幕が始まる。広島時代は2度の優勝に貢献し、’79年の近鉄との日本シリーズは「江夏の21球」で知られる名場面をつくった。
                      西武退団後の’85年に36歳でメジャー挑戦、開幕メジャー登録直前までいったが、願いは叶わなかった。
                      江夏が二十代でメジャー挑戦していたら……、レジー・ジャクソンやピート・ローズ、ウイリー・スタージャルなんかからバッタバッタと三振を奪う江夏も見てみたかったな、っと空想してみたり。私の子どもの頃の江夏は、そんな夢を抱かせるエースでした。


                      「阪神のエースというよりセ・リーグの主戦投手といってよい江夏投手」と讃えている’73年のカルビープロ野球カード


                      う〜ん、なんとも江夏らしいポーズ。さすが「ケンカは本職顔負け」と言われた男、他のプロ野球選手とはまた違ったオーラを漂わせております


                      「いまでいう母子家庭」と江夏の育てられた環境を紹介


                      このカード発行の翌’74年に王貞治から本塁打王を奪取する田淵もまだスマートです

                      というわけで、昨日5月15日は江夏豊63歳の誕生日でありました。


                      calendar

                      S M T W T F S
                      1234567
                      891011121314
                      15161718192021
                      22232425262728
                      293031    
                      << May 2011 >>
                       

                      twitter

                      selected entries

                      categories

                      archives

                      recent comment

                      links

                      profile

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM