「森永トップスターガム」(1964年)のカード

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    本日ご紹介するのは1964年(昭和39年)製の「森永トップスターガム」のカード。
    このカードは、「森永トップスターガム」を二つ購入するとその場でもらえたものです。
    当時のトップスター17選手が作られており、私が持っているのがそのうち10選手。
    このほかに江藤慎一のカードは見たことあるのですが、あと6選手は誰なんでしょ?
    なんせ私が生まれた年のもの、数多く刷られたものだけが出回っているのでしょうね。
    当時のカードでは珍しい、しっかりしたライティングで撮影された大判のカード。
    どの選手のポーズも決まっています。


    【王貞治】
    このカードが刷られたのが’64年、王は’62年に38本塁打で初めて本塁打王を獲得すると、
    翌’63年は40本塁打で2年連続のキング、そしてこの年は今年破られるまで日本最高記録だった55本塁打を記録した年、
    まさにトップスターの仲間入りをした頃です。
    できれば一本足のカットであってほしかった。



    【長島茂雄】
    このとき入団7年目、プロ6年間で首位打者4回、本塁打王2回、打点王2回という、
    球界ナンバーワンのトップスター。
    構え、顔付きもカッコイイです。



    【柴田勲】
    ’62年、巨人に投手として鳴り物入りで入団するも「投手失格」。
    外野手に転向し、同時にスイッチヒッターとなり、翌’63年にはレギュラーを獲得するのだから、
    いかに野球センスの良い選手だったかが伺える。
    あま〜いマスクの20歳、若きトップスターであります。



    【金田正一】
    このときプロ14年目、前年までに326勝と球界の頂点に君臨する「天皇」。
    しかし、この’64年が最後の20勝超え。国鉄在籍もこの年が最後となった。



    【豊田泰光】
    前年西鉄ライオンズから国鉄に移籍、引退までの6年間を国鉄ーサンケイで過ごすことになる。
    この’64年までは主に4番を打ち好成績を残すが、’65年からは肘の故障から出場機会が減っていくことになる。
    まだ28〜29歳の写真だが、野武士軍団の一員だったらしい貫禄がただよう。



    【山内一弘】
    前年オフ、小山正明との「世紀の大トレード」で大毎から阪神へ。
    この年、青田昇の通算本塁打記録293本塁打を抜き、最高記録に。
    翌’65年にはプロ野球史上初の通算300本塁打を記録する、
    まさに油の乗りきったトップスター。



    【村山実】
    このときプロ6年目の阪神のエース。
    山内一弘同様、写真はキリヌキです。背景が余程うるさかったんでしょうね。



    【野村克也】
    前年’63年に当時のプロ野球記録となるシーズン52本塁打を記録したのに。
    この年、すぐに王貞治が55本塁打……。ノムさん。
    このマスクを投げ捨てフライを追うポーズ、何度もやったんだろうな。
    いいポーズです。



    【森徹】
    入団2年目の’59年に31本塁打、87打点で二冠王。
    長嶋茂雄と同期入団、中日のスタープレーヤーだったが、
    首脳陣との確執で’62年から大洋に。
    メガネをかけてポーズをとるこの写真、ユニフォームの裾の処理具合といい、
    草野球のおじさんのようで親しみが持てます。



    【水原茂】
    巨人の監督としてリーグ優勝8回、日本一4回。
    ’60年からは東映の監督に就任。
    見ての通りユニフォームをジャイアンツカラーに変えてしまったのは流石であります。
    無人の球場で誰かに何かを指示するこの謎のポーズも決まっています。


    というわけで、今回は「森永トップスターガム」のカードを紹介いたしました。
    これ以外の選手のカード、「持ってるよ」あるいは「見たことあるよ」という情報お待ちしております。







     

    昭和25年の大判カード/スタルヒン・大下・別当・藤村・西沢・藤本

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      またまた久しぶりの更新ですが、今回は1950年(昭和25年)製の大判野球カード。
      これは、雑誌の付録なのか、何かの景品なのか、
      はたまたこれ自体を売っていたのか、定かではありません……。

      いずれにせよ、裏面の文章を見ると、子ども向けに'50年のシーズン前に作られたもののようであります。

      大きさは15僉10.5僂らいで、ものによって大きさが1儷瓩小さかったり、
      縦横が直角じゃなかったり良い味醸し出してます。
      60年以上前のものとしては非常にきれいな状態です。


      1950年というと、セ・パ2リーグ制になった年で、
      このころはメンコやカードが非常に多く作られていた時期です。








      スタルヒン投手(大映=スターズ)
      このとき34歳、前年'49年は27勝17敗で最多勝、通算では252勝を挙げており、
      このカード裏面の文章も「ことしもすごいピッチングがみられるでしょう。」
      と締められています。
      実際は11勝15敗と負け越し、“すごいピッチング”とはいかなかったようであります。







      西沢内野手(中日=ドラゴンズ)
      復員した’46年途中に金星に移籍していた西沢でしたが、
      投手から一塁手に転向し’49年にドラゴンズに戻ると、
      .309、37本塁打、114打点と主砲として戦後のドラゴンズを支えた。
      このカード裏面には、“忠彦にいさんが野球のうまいひとでしたから、西沢選手も十才ごろから、バットのふりかたをならいました。”とか、“二十四日間に11本のホームランをはなったこともファンにはわすれられないことです。”また、小学校五年生で身長が163センチもあったことなどが記されております。
      で、この裏面文章は“忠彦にいさんはなくなられましたが、はげましのことばを心にきざんでいる西沢選手は、ますますりっぱなホームラン打者になるでしょう”と、忠彦にいさん押しで締められております。







      大下外野手(東急=フライヤーズ)
      裏面の文章を抜粋すると、“終戦後の各選手のホームランの数をあわせてみると、大下選手が91本で、だんぜん第一位です。”や、“うて! 大下選手! ことしこそ大ホームランを、つぎつぎと、かっとばしてください!”と、当時のちびっ子たちの青バットに対する期待や憧れが感じられますね。







      藤村内野手(阪神=タイガース)
      裏面には“きょねんのシーズンで、ホームラン王そのほか四つの、かがやかしい賞を受けた……”とあります。これは187安打で最多安打、46本で本塁打王、142点で打点王と、366で最多塁打の四つですね。366塁打は当時の最多記録でしたが、翌’50年に小鶴誠が376塁打を放ち抜かれている。ただ、未だに歴代2位の記録であります。
      そして、“小学校にはいるまえから、弟の隆男君(阪神)やちかくにいた柚木君(南海)と野球をやりました。”のくだり、藤村富美男が小学校に入るまえかぁ。弟の藤村隆男と柚木進は藤村富美男の4つ年下であります……。一緒にやってた隆男君と柚木君の方が凄いね。







      藤本投手(巨人=ジャイアンツ)
      裏面は、“二十四年度シーズンの巨人軍優勝に、大きな力となった藤本選手は、とくいの「スライダー」で24勝7敗という、すばらしい成績をあげ、はえある沢村賞をさずけられた最優秀投手です。”という文章で始まっております。
      確かにこの'49年の成績も凄いのですが、なんといっても入団2年目の'43年の34勝11敗、防御率0.73、完封19試合。この年の防御率、完封試合数は現在でもシーズン最高記録。完封数は不滅だろうな。
      そして、通算の防御率が1.90、通算勝率が.697という凄さ。もちろんこれらも歴代1位です。
      あと、裏面文章の中に気になるフレーズが。“「魔の球、スライダー」をうみだして、……”。“魔の球”……。これから使っていこう。“魔球”よりも妖しげでよいね。









      別当外野手(毎日=オリオンズ)
      なんか他の選手と比べて不自然な写真であります。帽子は黒く塗りつぶされ、名鑑用の写真のようなポーズ。
      このカードが作られた前年、阪神でデビュー2年目の’49年に.322、39本塁打、126打点の大活躍、しかしこの年からは新球団の毎日オリオンズに若林、土井垣、本堂、呉らとともに移籍したため、オリオンズのユニフォーム姿の写真が無かったようである。
      資料を探しても、このデザインのユニフォームは存在せず、プロトタイプでこれに似たものがあったようだが、それも袖のラインがもっと太いものが2本、左袖だけに入ったもの。
      写真に手が加えられていると考えるのが自然かな。



      というわけで、今回は1950(昭和25)年、2リーグ制が始まるころに作られた大判カードをご紹介しました。

      関根潤三の華麗なバッティングフォームも拝める『東芝くじ付きカード』

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        今回は1960(昭和35)年に刷られた、東芝70周年記念のくじ付きカード。
        私の手元にあるのは5選手、当時何種類刷られたのか、どのようにして入手できたのかは不明であります。



        オモテ面の下部にはこのようなくじが付いており、当選番号は昭和35年の10月下旬に発表され、当選したら東芝にこの部分を送るという寸法。
        「マツダランプ躍進セール」ってことは、東芝製の「マツダランプ」に付いていたカードなのかな?



        で、裏面は賞品一覧。
        なんと特賞は、お母さんに30万円のダイヤの指輪か、30万円相当の東芝家電!
        子どもにも野球用具1チーム分か8ミリ撮影機&映写機! 
        調べてみると当時の大卒男子の初任給が1万6千円ほどだというから、相当な豪華景品だ。
        さすが東芝! よっ、太っ腹!!

        野球モノ・コレクターの私としましては、外れ券3枚で応募できる「高級野球盤」が非常に気になるのであります。
        2年前の'58年にはエポック社が野球盤第1号を発売しているから、エポック社の野球盤なのかな?



        豊田泰光(西鉄ライオンズ)

        この年の豊田は、腱鞘炎でリタイアした中西太に替わって4番に座り、打率.287、23本塁打、87打点でありました。



         
        山内一弘(大毎オリオンズ)

        当時の名は山内和弘。
        この年の山内は打率.313、32本塁打、103打点で、本塁打、打点の二冠王! チームもパ・リーグを制した。




        榎本喜八(大毎オリオンズ)

        この年の榎本は.344で首位打者。
        山内和弘、葛城隆雄、田宮謙次郎とミサイル打線の中核を担った。




        吉田義男(阪神タイガース)

        '60年の吉田は犠打22でセ・リーグ最多、ショートでベストナインに選ばれております。




        関根潤三(近鉄バファロー)

        ’59〜'61年は「バファローズ」ではなく「バファロー」だったお荷物球団近鉄。
        その中にあって、’58年に投手から外野手に転向していた関根は、打率.282、2本塁打、32打点。この数字で主に3番に座っていたところからも、当時の近鉄がいかに弱かったかがうかがえます。
        どれほど弱かったかと申しますと、この年は勝率.331で首位と39差の最下位。前年は勝率.300で首位と49差でもちろん最下位。そして、翌'61年に至っては勝率.261で首位と51.5差、103敗と3桁の負け数。
        千葉茂監督はもちろん更迭されました。

        ちなみに今季の横浜DeNAの勝率は.351……。まあまあの成績に見える……。



        三原監督が西鉄から大洋に移り、見事日本一に導いた’60(昭和35)年。
        そんな年に東芝が行ったキャンペーンのくじ付きカード。
        他にどんな選手のカードがあったのか? 長嶋、金田らのカードもあったのかな?
        もっと探してみたいアイテムであります。

        というわけで、だいぶ秋が深まってきた遠州・磐田からでした。
        では、また来週。

        V9以前の左のエース、伊藤芳明

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          伊藤芳明(いとう・よしあき)
          1933年生まれ
          読売ジャイアンツ(1959〜’65年)/東映フライヤーズ(’66〜’69年)



          ’59年に日本生命から即戦力左腕として巨人に入団した伊藤芳、合宿所では同期入団の甲子園のスター王貞治と相部屋だったことは、子どもの頃に読んだ王貞治関連の記事で知っていたが、私が5歳のときに現役を退いているため、リアルタイムでの記憶はありません。

          この伊藤芳、なんと新人の年に藤田元司を差し置いて開幕投手を務めております。ピークは’63年、19勝8敗、防御率1.98で沢村賞に。左のエースに登り詰めたところで、’65年にあの“天皇”と呼ばれた金田正一が移籍加入。左足肉離れの影響もあり出番は減って東映に移籍したのでありました。

          私の記憶している伊藤芳は巨人の名スカウトとしての姿、引退した翌’70年から66歳で退くまで長い間巨人を支えました。


          興誠高校! そうです、我が地元静岡県浜松市の高校です。今年から浜松学院高校と名を変えてしまいましたが、数年前までは常に県大会で上位進出する野球強豪校でした。’84年には甲子園出場も果たしております。
          卒業生には同期の二人 、小田智之(元北海道日本ハムファイターズ)と林昌樹(広島東洋カープ)が。
          そして、その2年後輩には……、野久保直樹(羞恥心)。とんと見なくなっちまったな。


          そんなわけで、12月30日は伊藤芳明78歳の誕生日です。
          これにて本年の更新は最後とさせていただきます。ありがとうございました。
          また、来年もよろしくお願いいたします。

          2012年が皆様にとって素晴らしい年になりますように。


          V9ショートは「豆タンク」黒江透修

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             黒江透修(くろえ・ゆきのぶ)
            1938年生まれ
            読売ジャイアンツ(1964〜’74年)



            ’50年代から巨人のショートを守っていた広岡達朗が首脳陣とのゴタゴタで出番が減った1966年、広岡に変わってレギュラーとなったのが165cmと非常に小柄な黒江。
            以後、’67年から’72年まではほぼ全試合出場でV9のセンターラインをがっちり守った。
            コーチとしても、巨人、中日、西武、千葉ロッテ、ダイエー、横浜で延べ21年務め、4球団で優勝と名参謀ぶりを発揮した。


            1973年の「カルビー プロ野球カード」。
            この裏面には小柄ながら闘志には定評のある黒江が、王選手の後をうけ選手会長に就任したことが記されています。
            ナインの信頼厚く満場一致の選出とあるが、選手会長受けてくれるって選手に異議を唱えることなんかあるんだろうか? 普通満場一致じゃね?




            巨人V9のキーストーンコンビ。
            土井正三との二遊間コンビは’66年から’73年まで。’65年から’73年までの巨人V9とピタリと重なる。このカードが刷られた翌’74年にはセカンド・上田武士、ショート・河埜和正がレギュラーとなり、コンビを組むことは少なくなった。
            黒江は’74年シーズンが終了すると、長嶋茂雄とともに引退したが、土井は’75年にレギュラーの座を奪い返し、’78年までその座を守った。
            それにしても、この写真はいつ見てもカッコイイなぁ。子どもの頃お気に入りの一枚でした。

            というわけで、昨日12月12日は黒江透修72歳の誕生日でした。


            元祖・親分はこの人、鶴岡一人

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               鶴岡一人(つるおか・かずと(かずんど))
              1946〜’58年まで山本一人
              1916年生まれ
              南海軍 ー 近畿グレートリング ー 南海ホークス(1939、’46~’52年)
              ’65年野球殿堂入り
              2000年没(83歳)



              選手としては実働8年と短いが、本塁打王1回、打点王1回、MVP3回の南海の主砲。
              しかし、南海を率いて黄金時代を築いた名監督として語られることの方が多いだろう。
              1946年からプレーイングマネージャー、’53年から専任監督となり’68年まで、なんと23年間南海の監督を務めた。
              監督としての通算勝利は最多の1773勝(1140敗81分け)、勝率も最高の.609。優勝は11回を数える、ドン鶴岡!



              阪神・若林忠志投手とツー・ショットのブロマイド。南海の帽子のマークが小文字の「n」なのがかわいい。目つきは恐いが。



              この型抜きメンコは顔も似ていて、なかなかの美品。迫力あります。親分!



              コミカルなイラストのメンコですが、鶴岡らしい迫力ある表情に描かれています。
              私が所有しているメンコ、ブロマイド類はすべて山本姓のときのもの。やはり’50年代がメンコの全盛期だったことがわかりますね。


              というわけで、昨日7月27日は1916年に鶴岡一人が生まれた日でした。


              「円城寺 あれがボールか秋の空」ホークスの赤鬼ジョー・スタンカ

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                 ジョー・スタンカ
                1931年生まれ
                シカゴ・ホワイトソックス(1959年)/南海ホークス(1960~’65年)/大洋ホエールズ(1966年)

                日本プロ野球、実働7年で100勝をあげたジョー・スタンカ。1964年には26勝7敗でMVPに輝き、その年の阪神との日本シリーズでは1・6・7戦に先発しいずれも完封の離れ業、シリーズのMVPも獲得した。



                スタンカといえば語り草になっているのが’61年の巨人との日本シリーズ。
                1点リードの9回裏にリリーフ登板したスタンカは、2死までこぎ着けたものの二つのエラーが重なり満塁に。ここで迎えた5番の宮本敏雄に対して、2ストライク1ボールから自信を持って投げ込んだフォークボールをを円城寺満球審は「ボール」と判定。
                キャッチャー野村がマスクをたたきつけ抗議、スタンカもマウンドを駆け降り円城寺球審に詰め寄ったが判定は変わるはずもなく……。次の投球をライト前にサヨナラヒットを浴びたスタンカはホームベース・カバーに入るついでに円城寺球審に体当たり! 気持ちはわからんでもないが。
                後にこの試合を観ていた商社マン(この人の詳細はわからず)が、実業家になっていたスタンカに次の句がしたためられた色紙を送ったという。
                「円城寺 あれがボールか秋の空」。



                ちょっと遅くなりましたが、7月23日はジョー・スタンカ80歳の誕生日でした。

                イカリ肩の左腕エース 高橋一三

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                  高橋一三(たかはし・かずみ)
                  1946年生まれ
                  読売ジャイアンツ(1965~’75年)/日本ハムファイターズ(’76〜’83年)

                   


                  今でこそ普通に使われる「左のエース」という呼称は、巨人のエース・堀内恒夫に対しての高橋一三に初めて使われたものらしい。
                  巨人時代に2度の沢村賞を受賞していた“左のエース”高橋一は、1976年に富田勝と共に日本ハムの主砲・張本勲とトレード。
                  日ハム時代は怪我に泣かされ二ケタ勝利が2度に終ったが、’81年には14勝でリーグ優勝に貢献し、古巣・巨人との日本シリーズに2試合先発した。
                  私の中の高橋一三はといえば、巨人の背番号21。この「21」は、堀内が新人のときに1年だけつけた番号を受け継いだもの。高橋一三が移籍した後も、巨人では宮本和知や高橋尚成など左腕の好投手がつけるイメージが強いんだが、調べてみたら加藤初や木佐貫洋など右投手もいるか。オレの思い込みかね、これは。


                  ’73年バット版#43「練習熱心な高橋(一)投手」
                  時には腕が抜けてしまうんじゃないかと思うほど投げ込むと書かれている。さすが左のエース!


                  ’73年旗版#163「巨人を支えるな高橋(一)投手」
                  このカードが刷られた時には「右のエース堀内投手がコケて勝率5割ラインをさまよう巨人軍…」。しかし、終ってみれば高橋一三はこの年24勝、巨人は大逆転でV9を達成したのだが(次のカードに続く…)


                  ’73年旗版#345「巨人セ・リーグ九連覇成る!」
                  ’73年シーズンの阪神は、残り対中日と対巨人の2試合でひとつ勝つか引き分けで優勝という状況。しかし阪神は中日に逆転負け。ペナントの行方は巨人-阪神の最終戦、勝った方が優勝という大一番となった、のだが……。勝負は9-0で巨人があっさりV9達成。この写真は完封勝利の高橋一三が急いでベンチに逃げ帰っているところ。試合終了と同時に阪神ファン3000人が暴徒と化したからだ。しかし、もっと驚くのは中日戦の前に球団に呼ばれた中日戦先発予定の江夏豊は、「勝ったらお金がかかるから勝たなくていい」と言われたと後に証言。当時の阪神球団の酷さがよくわかるエピソードである。って、最後は高橋一三じゃなくて阪神の話しになっちゃったよ


                  というわけで、本日6月9日は高橋一三65歳の誕生日でありました。

                  ’70年代ブレーブスの3番打者・加藤英司

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                     加藤英司(かとう・ひでじ)、1978年まで秀司(読み同じ)
                    1948年生まれ
                    阪急ブレーブス(1969〜’82年)/広島東洋カープ(’83年)/近鉄バファローズ(’84~’85年)/読売ジャイアンツ(’86年)/南海ホークス(’87年)


                    私が少年時代の阪急ブレーブスお得意パターンといえば、1番・福本が出て盗塁、2番・大熊が送りバントで3番・加藤の犠牲フライで初回あっさり1点。強かった〜。


                    【カルビープロ野球カード#90】
                    カード裏面には「守備は王より上手いと言われることもある。」とある。ゴールデングローブ賞は’75年から3年連続で受賞している


                    【’73カルビープロ野球カード#256】
                    このカード裏面には「人のアダ名をつける名人というチャメッ気もある好選手」と書いてある。誰にどんなアダ名を付けたのか気になるところだが本人のアダ名は「茶」。もちろん加藤だからだが、名人としてはこんな安直なアダ名で納得してたんだろうか?


                    1968年ドラフトで阪急は、後の中心選手1位の山田久志、2位の加藤秀司、さらに7位で福本豊の3人を獲得しているのだから、当時のスカウトは天晴れですね。

                    というわけで、本日5月24日は加藤秀司63歳の誕生日です。


                    ライオンズ一筋! 愛称は「トンビ」東尾修

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                       東尾修(ひがしお・おさむ)
                      1950年生まれ
                      西鉄ライオンズ - 大西洋倶楽部ライオンズ - クラウンライターライオンズ - 西武ライオンズ(1969〜’88年)
                      2010年野球殿堂入り


                      入団の年に起きた「黒い霧事件」でエースの池永正明らが球界から追放され投手不足となり、チャンスが回ってきた東尾は、翌’70年からフル回転し、弱小球団のエースとして奮闘。生涯で最多敗戦の年が5回、中でも’72年はなんと41試合も先発して25敗(18勝)! 恐るべし。
                      初優勝は西武になってからの’82年。ここからは常勝球団の投手陣のリーダーとして活躍。
                      内角を突く強気のピッチングスタイルでデッドボールも多く、通算165個は日本記録。’86年にデッドボールを与えたデービス(近鉄)に殴られた場面は、当時のパ・リーグとしては珍しく全国中継されていて大きな波紋を呼んだ。


                      「ヤング太平洋の星」! 当時23歳の東尾


                      「目標、敗戦減少 東尾投手」この年まで4年間1度も勝ち越せていなかった東尾の切実なる目標


                      裏は重ね刷り(ミスプリント)されていて見づらいが、「最近はシンカーもおぼえて円熟したピッチングをみせるようになったまだまだ伸びる成長株」このとき23歳で円熟のピッチング


                      というわけで、本日5月18日は東尾修61歳の誕生日です。



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