追悼 豊田泰光のメンコ・カード

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    2016年8月14日、豊田泰光さん亡くなる。

     

    ’53年に水戸商業から西鉄に入団し、1年目からショートのレギュラーになると、打率.281、27本塁打で新人王に。

    ’56年には首位打者となり、日本シリーズでもMVPに。

    西鉄ライオンズ黄金期を支えた強打者は、'63年に国鉄に移籍。

    ’69年に引退するまで17年で1814試合出場、1699安打、263本塁打、888打点。

    ベストナイン6回、オールスター出場9回。

     

    左のメンコは、明らかに豊田と吉田だと思うのだが、「盤田」の表記。

    そんな選手いましたっけ?

     

    左のピンクのメンコ、写真のアングル、構図、カラーリング、秀逸です。

     

    右のメンコ、袖にナンバーが入ったユニフォームは’60〜’61年のデザイン。

     

    左のメンコの構図はいただけませんなあ。

     

    そして、私の生まれ年であります’64年のスタープレイヤー勢揃いのメンコシート。

     

    ベテランの風格が漂う国鉄時代のメンコ。

     

    東芝マツダランプの抽選券(’60年)

     

    森永トップスター・カード

     

     

    ご冥福をお祈りいたします。


    ヨギ・ベラ/ホワイティー・フォード/ロジャー・マリス(ハートランド・フィギュア)

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      今回ご紹介するハートランド・フィギュアは、1950年代〜’60年代のヤンキースで活躍し、
      後にそれぞれの背番号が永久欠番になったこの3人。




      ホワイティー・フォード投手は’50年〜’67年の16年間ヤンキース一筋、
      ヨギ・ベラ捕手は’47年〜’64年まで18年ヤンキースで活躍後、現役最終年はメッツに在籍した。
      そして、ロジャー・マリス外野手はインディアンス、アスレチックスを経て’60年ヤンキースに移籍、’66年までの7年間をニューヨークで過ごした。
      この頃のヤンキースはミッキー・マントルを中心とした強力打線で、“Muderer's Row(殺人打線)”と恐れられた。
      このメンバーが一緒にプレーした7年間で5度のリーグ・チャンピオン、
      ルース、ゲーリッグの時代、ディマジオの時代に続いて第三期黄金時代と呼ばれる輝かしい時代。
      これは、そんな輝かしい1960年に制作されたフィギュアです。




      ロレンス・ピーターという美しい名を持つベラ、
      歩く姿がまるでヨガ行者のようということで、ヨガが訛り“ヨギ”と呼ばれた。
      ’40年代のディマジオ、’50年代のマントルという主砲の後の5番を打ち、
      11年連続80打点以上という勝負強さは目を見張る。

      マンガ好きで、悪球打ち、残された語録は数知れず。
      愛すべきキャラクターで、フィギュアにするにはもってこいの選手。
      ハートランド・フィギュアの中でも特に優れた出来で、珠玉の逸品であります。
      オリジナルのキャッチャーマスクは幼い頃の姪っ子に壊され、
      写真で手に掛けているマスクは25周年記念の復刻版のものであります。




      ヤンキース第三期黄金時代のエース左腕、ホワイティー・フォード。
      ’50年のルーキーイヤー、初戦こそ負け投手になったが、その後9連勝という華々しいデビューを飾ったが、
      翌’51、’52年は兵役で野球から離れることとなる。
      軍隊で負傷したにもかかわらず、見事にカムバックした’53年から’65年まで13年連続二ケタ勝利。
      打者の内角をえぐる“ひげそりボール”を絶妙にコントロールし、ヤンキース10回のリーグ優勝に貢献した。

      このフィギュアは、1990年製の“Dallas”シリーズ。
      ポーズは良いのだが、顔がいまひとつ似ていない。
      もうちょっと頬を膨らませてくれないとフォードっぽくないね。




      ロジャー・マリスといえば61本塁打という当時のシーズン記録を作った’61年が頂点。
      このフィギュアはその前年、マリスがヤンキースに移籍してきた’60年に作成されたもの。
      クーパースタウンで購入したこのフィギュアは、表情も若々しく、非常に良い出来です。
      翌年、ルースの“聖域”を超えたことで、あらゆるバッシングや嫌がらせにさらされる前の姿であります。




      ヨギ・ベラ(Lawrence Peter "Yogi" Berra)

      1925年生まれ(88歳)

      ニューヨーク・ヤンキース(1946〜’63年)/ニューヨーク・メッツ(’64年)

      1972年野球殿堂入り

      ●アメリカンリーグMVP 3回(’51年、’54年、’55年)

      ●オールスター出場15回

      【通算】19年 2150安打 358本塁打 1430打点 30盗塁

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      ホワイティー・フォード(Edward Charles "Whitey" Ford)

      1928年生まれ(85歳)

      ニューヨーク・ヤンキース(1950〜’67年)

      1974年野球殿堂入り

      ●サイ・ヤング賞 1回(’61年)

      ●最優秀防御率 2回(’56年/2.47、’58年/2.01)

      ●最多勝利 3回(’55年/18勝、’61年/25勝、’63年/24勝)

      【通算】16年 236勝 106敗 10S 1956奪三振 防御率2.75

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      ロジャー・マリス(Roger Eugene Maris)

      1934年生まれ

      クリーブランド・インディアンス(1957〜’58年)/カンザスシティ・アスレチックス(’58〜’59年)/ニューヨーク・ヤンキース(’60〜’66年)/セントルイス・カージナルス(‘67〜’68年)

      1985年没(51歳)

      ●アメリカンリーグMVP 2回(’60年、’61年)

      ●本塁打王 1回(’61年/61本塁打)

      ●打点王 2回(’60年/112打点、’61年/142打点)

      ●ゴールドグラブ賞 1回(’60年)

      ●オールスター出場 4回

      【通算】12年 1325安打 275本塁打 851打点 21盗塁


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      “打撃の神様”テッド・ウィリアムズとスタン・“ザ・マン”・ミュージアル(ハートランド・フィギュア)

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        今回ご紹介するハートランド・フィギュアは、’40〜’50年代に打ちまくった両リーグを代表するこのスラッガーふたり。アメリカンリーグからレッドソックスのテッド・ウィリアムズと、ナショナルリーグ代表カージナルスのスタン・ミュージアルです。



        ウィリアムズは1939年デビューで’60年までボストン・レッドソックス一筋。ミュージアルは’41年のメジャーデビューから’63年までセントルイス・カージナルス一筋と、フランチャイズプレイヤーとしてほぼ同時期に大活躍。

        3割100打点を超えたシーズンが、ウィリアムズが9回、ミュージアルが10回っていうんだから、本当にすごいね。




        最後の4割打者テッド・ウィリアムズ。

        回っている78回転のレコードのラベルの文字を読むことができたとか、7706打席すべてを記憶していたなど、その桁外れな能力を示すエピソードはよく知られたところ。

        兵役で合計4年8カ月ものあいだ野球から離れていなければ、あと数回4割打ってたんじゃなかろうか。
         

        「じゅうたんの上でやるベースボールはベースボールじゃない」

        これは、打撃の神様ウィリアムズが、人工芝について語ったもの。まったくその通り!
         

        このフィギュアはテッド・ウィリアムズの頑固な感じが表情に出ていて良い出来。お気に入りです。


        テッド・ウィリアムズ(Ted Williams)

        1918年生まれ

        ボストン・レッドソックス(1939〜’42、’46〜’60)

        1966年野球殿堂入り

        2002年没(83歳)

        ●アメリカンリーグMVP 2回

        ●三冠王 2回(’42年、’47年)

        ●首位打者 6回(’41年/.406、’42年/.356、’47年/.343、’48年/.369、’57年/.388、’58年/.328)

        ●本塁打王 4回(’41年/37本、’42年/36本、’47年/32本、’49年/43本)

        ●打点王 4回(’39年/145打点、’42年/137打点、’47年/114打点、’49年/159打点)

        【通算】19年 2654安打 521本塁打 1839打点 24盗塁





        “ザ・マン”。スタン・“ザ・マン・”ミュージアル。人格者であります。完全無欠な野球界の紳士なのであります。

        完全無欠っぷり全開のこんなエピソードをひとつ。’48年9月22日、左手首を痛めていたミュージアルは、手にひびかないようにひと振りで決めようと決意。この日の結果は5打数5安打。しかも、この試合でバットを振ったのは、ヒットを打った5回だけだった。完璧です。
         

        このフィギュアはハートランド・シリーズの中ではいまひとつの気に入らない。顔といい、ユニフォームといい、ちょっとノッペリし過ぎじゃないだろか。らしくないぞ! ハートランド。
         

        スタン・ミュージアル(Stan Musial)

        1920年生まれ

        セントルイス・カージナルス(1941〜’44年、’46〜’63年)

        1969年野球殿堂入り

        2013年没(92歳)

        ●ナショナルリーグMVP 3回(’43年、’46年、’48年)

        ●首位打者 7回(’43年/.351、’46年/.365、’48年/.376、’50年/.346、’51年/.355、’52年/.336、’57年/.351)

        ●打点王 2回(’48年/131打点、’56年/109打点)

        【通算】22年 3630安打 475本塁打 1951打点 78盗塁




        というわけで、今回は1960年製のハートランド・フィギュアから、テッド・ウイリアムズとスタン・ミュージアルの2体をご紹介しました。


        では。
         

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        マシューズ、アーロン/通算HR512本と755本。ミルウォーキーの主砲コンビ(ハートランド・フィギュア)

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           今回は1960年製のハートランド・フィギュアから、‘50〜’60年代のミルウォーキーを熱狂させたブレーブスの主砲コンビ、ハンク・アーロンとエディ・マシューズの2体をご紹介。

           このフィギュア、左袖の酋長マークがざっくり作りすぎで、いちごのようなかわいらしい感じになっております。


           マシューズは1952年、当時ボストンに本拠地を置いていたブレーブスでメジャー・デビュー。このとき20歳で三塁のレギュラーを奪うと、翌’53年には47本で本塁打王を獲得した。

           ’54年に本拠地をミルウォーキーに移したブレーブスに、20歳の黒人外野手がデビューする。マシューズが移籍する’66年までの13年間、共に主砲としてブレーブスを支えることになるハンク・アーロンである。

           20本以上本塁打を放ったのは、マシューズがデビューの年から14年連続、アーロンはデビューの翌年から20年連続。二人がブレーブスで同じユニフォームを着た13年間で放った本塁打は、マシューズ405本、アーロン442本の合計847本。

           ちなみに日本プロ野球の王、長嶋の場合は、王634本、長嶋415本の1049本であります。

           マシューズは‘70〜’74年にブレーブスの監督を務め、’74年にアーロンがベーブルースの記録を抜く715号本塁打をベンチで見ることとなります。


           長期にわたり欠場することなく、本塁打と打点を重ねたマシューズは、ファンから「ステディ・エディ」と呼ばれ親しまれた。

           やや腰高の三塁守備は、デビュー年には30失策でリーグ最多。しかし、プレーに華がありルックスもハンサムな若きホームラン・スターは、ミルウォーキー市民のアイドルでありました。
           

          エディ・マシューズ(Eddie Mathews)

          1931年生まれ

          ボストン・ブレーブス/ミルウォーキー・ブレーブス/アトランタ・ブレーブス(1952〜’66年) ー ヒューストン・アストロズ(’67年) ー デトロイト・タイガース(’67〜’68年)

          1978年野球殿堂入り

          2001年没(69歳)

          ●本塁打王 2回(’53年/47本、’59年/46本)

          【通算】17年 2315安打 512本塁打 1453打点 68盗塁



           

           アーロンといえばホームラン。今はバリー・ボンズに抜かれて歴代2位となったが、私の少年時代は世界のホームラン王。

           ’74年秋に来日したときの王とのホームラン競争は今でも鮮明に覚えております。

           それにしてもこのフィギュア、自立しないのが玉にきず。ショーケースの中で倒れ帽子のつばが割れております。写真撮影時には別のベースに貼り付けて立たせた。まったく手が掛かる。が、それがまた良い。
           

          ハンク・アーロン(Hank Aaron)

          1934年生まれ

          ミルウォーキー・ブレーブス/アトランタ・ブレーブス(1954〜’74年) ー ミルウォーキー・ブルワーズ(‘75〜’76年)

          1982年野球殿堂入り

          ●ナショナルリーグMVP 1回(’57年)

          ●首位打者 2回(’56年/.328、’59年/.355)

          ●本塁打王 4回(’57年/44本、’63年/44年、’66年/44本、’67年/39本)

          ●打点王 4回(’57年/132打点、’60年/126打点、’63年/130打点、’66年/127打点)

          ●ゴールデングラブ賞 3回(’58年、’59年、’60年)

          【通算】23年 3771安打 755本塁打 2297打点 240盗塁



           

           というわけで、今回は1960年製のハートランド・フィギュアから、ハンク・アーロン、エディ・マシューズの2体をご紹介しました。

           次回は’40〜’50年代に大活躍した二人、“ザ・マン”と最後の四割打者のハートランド・フィギュアをご紹介する予定です。

           では。
           

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          マントル、メイズ、スナイダー/’50年代NYのセンターフィールダー(ハートランド・フィギュア)

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             私のベースボール・フィギュア・コレクションの中で最も愛するシリーズが今回ご紹介するこれ。
             1960年のハートランド社製プラスチック・フィギュアです。
             このフィギュアの存在を知ってから、アメリカのオークションや現地のショップ、カードショウなどでコツコツ集めてまいりました。
             25周年で作られた復刻版を含み30体ほど所有しておりますので、今回から数体ずつテーマを決めて紹介していきたいと思います。



             今回は1950年代のニューヨーク、ヤンキースタジアム、ポログラウンズ、そしてエベッツフィールド、それぞれのセンターフィールドを守っていたスーパースター3人衆のフィギュアです。
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             ジョー・ディマジオ現役最後の年となる1951年のヤンキースで、左打ちの祖父と右打ちの父に仕込まれ育った根っからのスイッチヒッター外野手、ミッキー・マントルがデビュー。
             同じくニューヨークに本拠地を置くジャイアンツでは、走攻守三拍子揃った“黒い稲妻”ウィリー・メイズも’51年にデビューし、もうひとつのニューヨークのチーム、ブルックリン・ドジャースには’47年にデビューし’49年からレギュラーとなっていたスラッガー、デューク・スナイダーが活躍していた。
             マントル、メイズがデビューした’51年から、ジャイアンツとドジャースが西海岸に移転する’57年までの7年間、ニューヨークの3球団でいずれもセンターを守る強打者3人がしのぎを削ることとなります。まさにニューヨークこそが野球の中心、そんな輝かしい時代でありました。



             当時ニューヨークの酒場では、マントル、メイズ、スナイダー、センターを守るこの3人で誰が最も優れた選手か、という話題でかんかんがくがく盛り上がっていたことはたやすく想像できますね。まあ、当時を知らない私のイメージ、また通算成績から推察するに、スナイダーが若干劣るかな、と思いますが実際のところどうだったのでしょうか。
             そこで3人が共にニューヨークにいた’51〜’57年の7年間の記録を比べてみることとしましょう。ただ、メイズが兵役で’52年途中から’53年を棒に振っていますので、単純には比べられませんが。


             どうです、こりゃ凄い。3人ともOPS(出塁率+長打率)がAランクとされる.900を大きく超えている。マントルに至っては1.001! それぞれのチームにこんなセンターフィールダーがいたんだから、そりゃニューヨークは大騒ぎだよ。
             しかも、この7年間のチーム成績は

            ヤンキース(アメリカンリーグ)リーグ優勝6回 ワールドシリーズ優勝5回

            ジャイアンツ(ナショナルリーグ)リーグ優勝2回 ワールドシリーズ優勝1回

            ドジャース(ナショナルリーグ)リーグ優勝4回 ワールドシリーズ優勝1回

             ということで、’54年ワールドチャンピオンがジャイアンツ、’55年がドジャース、それ以外はヤンキースと、7年間全てニューヨークにチャンピオンフラッグがあったわけです。そりゃニューヨークは大騒ぎだ!

             


            マントルといえばコレクションの王様。
            数あるアイテムの中でもこのフィギュアがダントツでカッコイイですね。
             


            このポケットキャッチのポーズ、あの有名な’54年ワールド・シリーズのスーパーキャッチ、「ザ・キャッチ」とは違いますよね?
            バッティング・フォームじゃないところが泣かせる。
            そして、アメリカのどこかの誰かさんによって、マジックで書かれた“Willie Mays”って背中の文字が、もっと泣かせる。



            デューク・スナイダーはブルックリンにドジャースが居た頃の古き良きニューヨークの象徴だね。これ賞でてバーボン傾けたら最高だね。間違いない。
            ただ、これは’60年製なんで、ブルックリンじゃなくてロサンゼルスの帽子です。あしからず。
            そういえば、スナイダーのフィギュアっていうのは、このハートランド製しか無いんじゃないかな?


            ミッキー・マントル(Mickey Mantle
            1931年生まれ
            ニューヨーク・ヤンキース(1951〜’68年)
            1974年アメリカ野球殿堂入り
            1995年没(63歳)
            ●アメリカンリーグMVP 3回(’56年、’57年、’62年)
            ●三冠王 1回(’52年/.353 52本塁打 130打点)※スイッチヒッター初
            ●ゴールドグラブ賞 1回(’62年)
            ●首位打者 1回(’56年/.353)
            ●本塁打王 4回(’55年/37本、’56年/52本、’58年/42本、’60年/40本)
            ●打点王 1回(’56年/130打点)
            ●オールスター出場 16回
            【通算】18年 2415安打 536本塁打 1509打点 153盗塁


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            ウィリー・メイズ(Willie Mays
            1931年生まれ(82歳)
            ニューヨーク・ジャイアンツ/サンフランシスコ・ジャイアンツ(1951〜’52年、’54〜’72年)ー ニューヨーク・メッツ(’72〜’73年)
            1979年アメリカ野球殿堂入り

            ●ナショナルリーグMVP 2回(’54年、’65年)
            ●新人王(’51年)
            ●ゴールドグラブ賞 12回(’57〜’68年)
            ●首位打者 1回(’54年/.345)
            ●本塁打王 4回(’55年/51本、’62年/49本、’64年/47本、’65年/52本)
            ●盗塁王 4回(’56年/40盗塁、’57年/38盗塁、’58年/31盗塁、’59年/27盗塁)
            ●30本塁打30盗塁 2回(’56年、’57年)
            ●オールスター出場 20回
            【通算】22年 3283安打 660本塁打 1903打点 338盗塁


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            デューク・スナイダー(Duke Snider
            1926年生まれ
            ブルックリン・ドジャース/ロサンゼルス・ドジャース(1947〜’62年)ー ニューヨーク・メッツ(’63年)ー サンフランシスコ・ジャイアンツ(’64年)
            1980年アメリカ野球殿堂入り
            2011年没(84歳)

            ●打点王 1回(’55年)
            ●本塁打王 1回(’56年)
            ●オールスター出場 8回
            【通算】18年 2116安打 407本塁打 1333打点 99盗塁


            というわけで、今回は’50年代ニューヨークのセンターフィールド3人衆をご紹介いたしました。
            次回は’50〜’60年代ブレーブスの主砲2人のハートランド・フィギュアを、と考えております。
            ではでは。


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            「それを作れば、彼が来る」”シューレス”ジョーのフィギュア

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              本日ご紹介するのは、1999年に発売された"SOUTHLAND PLASTICS"のフィギュア。
              プラスチック・フィギュアとしては、私が所有するジー・ジャクソン、グレッグ・マダックス、トニー・グウィンの他に、ケン・グリフィーJr.が発売されました。
              また、同社はノーラン・ライアン、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、クリスティー・マシューソン、ホーナス・ワーグナー、ミッキー・マントル、ロベルト・クレメンテ、タイ・カッブ、ウォルター・ジョンソンのブロンズ製フィギュアも製作

              こちらのブロンズ製は高価な上に着色もしていないし(ブロンズ像なんで当然だね)、何より非常に重いため、コレクターとしての食指は伸びずじまい。

              この"SOUTHLAND PLASTICS"は、現在でも大変人気のある1960年に発売された"HARTLAND PLASTICS"の造形師が原型を作ってたんじゃなかったかな。
              "HARTLAND PLASTICS"の頃は形態の省略の仕方など、非常に雰囲気の良い仕上がりだったのですが、約40年後に制作したこの作品は、顔に削り跡も残るちょっと残念な仕上がりとなりました。


              で、こちらが”シューレス”ジョー・ジャクソンのフィギュア。
              多くのファンに愛されながらも、1919年に起きた八百長事件「ブラック・ソックス事件」に関わったとして永久追放された外野手であります。


               


              もちろん、背番号のない時代であります。



              100年前の選手ということで、なかなか”シューレス”ジョーのコレクション・アイテムは出ないのですが、印刷物ではなく、このようにフィギュアとして手元にあるというのは、オールド・ベースボール好きにはたまらない喜びなのであります。



              そして先日野球殿堂入りした”精密機械”グレッグ・マダックス。

               


              直筆サインはほとんど消えてしまっています……。



              そして、2007年に野球殿堂入りした”安打製造機”トニー・グウィン。

               


              こちらのサインも消えかかってる……。
              陽には当たってないはずなんだが。このプラスチック素材とインクの相性が良くなかったようですね。
              非常に残念。



              というわけで、今回は"SOUTHLAND PLASTICS"のフィギュアをご紹介しました。
              次回からは、1960年製の元祖プラスチック・フィギュア、"HARTLAND PLASTICS"をご紹介していきます。


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              1954年「おもしろブック」附録かるた

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                今回は1954(昭和29)年、「おもしろブック」新年特大号の附録の「大野球かるた」。

                外箱は裏面にベーブ・ルースの写真があったりして素晴らしいデザインでありますが、

                痛みが激しいのがなあ。残念ですね。

                 



                前年の1953年シーズンは、水原巨人が3連覇を果たし、

                豊田泰光が中西太に続き2年連続で西鉄からの新人王に輝き、藤村富美男が二冠王を獲得した年。

                来たる'54年シーズンは西鉄が初のパ・リーグ覇者になり、中日が初の日本一に輝くことになる。

                そんな時代に作られたかるたであります。









                「三十勝 あとひといきだ がんばれ大友」

                前年27勝(6敗)を挙げたため読み札はこんな文句に。このシーズンは21勝(15敗)にとどまったが、

                '55年には見事30勝(6敗)を挙げることとなります。







                山本一人、水原茂の名将そろい踏み。







                「きかん坊 みているような 土井垣武」

                わんぱくだね、「和製ヨギ・ベラ」は。







                この'54年当時、完全試合を達成したことのある投手は'50年の藤本英雄ただひとり。

                次に達成することとはるのは'55年の武智文雄。

                現在まで15人の投手がそれぞれ一度達成しているが、

                最後に達成したのは'94年の槙原寛己。あれから20年、そろそろ見てみたいものであります。







                なんかここら辺から絵札と読み札が合わなくなってきたぞ。

                まあ、使うときは切り離すからいいんだろうけど、

                コレクション的にはやはり合っていてほしいぞ。







                少年・金田。このとき金田正一20歳、すでに通算77勝挙げております。

                凄すぎる。







                「のっぽの杉下」「でかちゃん杉山」!







                「逆シングルの白石勝巳」、後に広島監督時代の'64年に、

                あの王シフトを考案した選手であります。







                スタルヒンはこの年高橋ユニオンズで8勝(13敗)を挙げ、300勝まであと4勝と迫った。

                最後の年となる'55年は7勝(21敗)で、通算303勝で引退した。







                あれ? 同じ読み札が2枚入ってるよ……。

                そしてこの千葉茂、西沢道夫、黒尾重明、阿部八郎の読み札が無い。

                セットミス……。無念!





                そんなわけで、今回は1954年1月発行の「おもしろブック」新年特大号の附録。

                「大野球かるた」をご紹介しました。


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                「森永トップスターガム」(1964年)のカード

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                  本日ご紹介するのは1964年(昭和39年)製の「森永トップスターガム」のカード。
                  このカードは、「森永トップスターガム」を二つ購入するとその場でもらえたものです。
                  当時のトップスター17選手が作られており、私が持っているのがそのうち10選手。
                  このほかに江藤慎一のカードは見たことあるのですが、あと6選手は誰なんでしょ?
                  なんせ私が生まれた年のもの、数多く刷られたものだけが出回っているのでしょうね。
                  当時のカードでは珍しい、しっかりしたライティングで撮影された大判のカード。
                  どの選手のポーズも決まっています。


                  【王貞治】
                  このカードが刷られたのが’64年、王は’62年に38本塁打で初めて本塁打王を獲得すると、
                  翌’63年は40本塁打で2年連続のキング、そしてこの年は今年破られるまで日本最高記録だった55本塁打を記録した年、
                  まさにトップスターの仲間入りをした頃です。
                  できれば一本足のカットであってほしかった。



                  【長島茂雄】
                  このとき入団7年目、プロ6年間で首位打者4回、本塁打王2回、打点王2回という、
                  球界ナンバーワンのトップスター。
                  構え、顔付きもカッコイイです。



                  【柴田勲】
                  ’62年、巨人に投手として鳴り物入りで入団するも「投手失格」。
                  外野手に転向し、同時にスイッチヒッターとなり、翌’63年にはレギュラーを獲得するのだから、
                  いかに野球センスの良い選手だったかが伺える。
                  あま〜いマスクの20歳、若きトップスターであります。



                  【金田正一】
                  このときプロ14年目、前年までに326勝と球界の頂点に君臨する「天皇」。
                  しかし、この’64年が最後の20勝超え。国鉄在籍もこの年が最後となった。



                  【豊田泰光】
                  前年西鉄ライオンズから国鉄に移籍、引退までの6年間を国鉄ーサンケイで過ごすことになる。
                  この’64年までは主に4番を打ち好成績を残すが、’65年からは肘の故障から出場機会が減っていくことになる。
                  まだ28〜29歳の写真だが、野武士軍団の一員だったらしい貫禄がただよう。



                  【山内一弘】
                  前年オフ、小山正明との「世紀の大トレード」で大毎から阪神へ。
                  この年、青田昇の通算本塁打記録293本塁打を抜き、最高記録に。
                  翌’65年にはプロ野球史上初の通算300本塁打を記録する、
                  まさに油の乗りきったトップスター。



                  【村山実】
                  このときプロ6年目の阪神のエース。
                  山内一弘同様、写真はキリヌキです。背景が余程うるさかったんでしょうね。



                  【野村克也】
                  前年’63年に当時のプロ野球記録となるシーズン52本塁打を記録したのに。
                  この年、すぐに王貞治が55本塁打……。ノムさん。
                  このマスクを投げ捨てフライを追うポーズ、何度もやったんだろうな。
                  いいポーズです。



                  【森徹】
                  入団2年目の’59年に31本塁打、87打点で二冠王。
                  長嶋茂雄と同期入団、中日のスタープレーヤーだったが、
                  首脳陣との確執で’62年から大洋に。
                  メガネをかけてポーズをとるこの写真、ユニフォームの裾の処理具合といい、
                  草野球のおじさんのようで親しみが持てます。



                  【水原茂】
                  巨人の監督としてリーグ優勝8回、日本一4回。
                  ’60年からは東映の監督に就任。
                  見ての通りユニフォームをジャイアンツカラーに変えてしまったのは流石であります。
                  無人の球場で誰かに何かを指示するこの謎のポーズも決まっています。


                  というわけで、今回は「森永トップスターガム」のカードを紹介いたしました。
                  これ以外の選手のカード、「持ってるよ」あるいは「見たことあるよ」という情報お待ちしております。







                   

                  1960年代前半の外国人選手メンコ(その2)

                  0
                    本日は、前々回にアップしました「’60年代前半に活躍した外国人選手のメンコ」の続きを。


                    まずは’60年阪急に入団し、’65年にはサイクル安打を達成したダリル・スペンサー。
                    同年、野村克也と本塁打王を争うも、残り2週間のところで交通事故に巻き込まれ骨折。
                    野村が戦後初の三冠王を手にする結果に。

                    ’64〜’68、’71〜’72阪急 二塁手 三塁手 一塁手
                    打率.275 152本塁打 391打点
                    ・最高出塁率 1回(’65)
                    ・ベストナイン 2回(’64、’65)
                    ・日本シリーズ優秀選手賞 1回(’67)
                    ・日本シリーズ打撃賞 1回(’68)
                    ・オールスターゲームMVP 1回(’65)



                    お次は流暢な関西弁で今なお人気の“チコ”ことバルボン。
                    盗塁王3回、通算308盗塁の俊足二塁手でありました。

                    ’55〜’64阪急ー’65近鉄 二塁手
                    打率.241 33本塁打 260打点 308盗塁
                    ・盗塁王 3回(’58、’59、’60)
                    ・最多安打 1回(’55、当時は表彰なし)



                    ’63年、豊田泰光の移籍で空いたショートのポジションを埋めたのがロイ。
                    西鉄在籍5年間は全てチームトップの打点で貢献した。

                    ’63〜’67西鉄ー’68近鉄 遊撃手 三塁手
                    打率.255 126本塁打 418打点 29盗塁
                    ・ベストナイン 1回(’66)



                    20歳でハワイから大毎に入団したディサは、飲酒運転などトラブルが多かったそうな。
                    まだ若かったのね。

                    ’61〜’64大毎・東京ー’64〜’65近鉄 投手
                    16勝19敗 防御率3.78



                    ’62年、大毎にテスト入団したのは強肩捕手テスタ。
                    しかしレギュラー確保とはいかず、わずか57試合、11安打の成績で日本を去ることに。

                    ’62大毎 捕手
                    打率.136 0本塁打 5打点 0盗塁



                    首位打者を獲得するなど、19年に渡り日本球界で活躍した白仁天。
                    出生時に日本国籍を持っていたため、日本人選手の扱いの選手だったため、
                    このコーナーの括りとしては外れますが、番外ということで。

                    ’63〜’74東映・日拓・日本ハムー’75〜’76太平洋−’77〜’80ロッテー’81近鉄 捕手 外野手
                    打率.278 209本塁打 446打点 212盗塁
                    ・首位打者 1回(’75)



                    ’50年代後半から7年に渡って東映で活躍したラドラ。
                    1年目に9本塁打を記録しているが、これはこの年東映の最多本塁打。
                    張本入団前年の東映の貧打線ぶりが伺える。

                    ’58〜’64東映 外野手
                    打率.243 37本塁打 245打点 66盗塁



                    東映初の外国人選手、スタンレー橋本。
                    来日前はハワイで小学校の教員だった。

                    ’57〜’60東映ー’61大洋 一塁手
                    打率.261 11本塁打 114打点 24盗塁
                    ・ベストナイン 1回(’58)



                    ’62年、「30本塁打100打点」を公約し大洋に入団したのはマック。
                    しかし、実際の成績は……。チカラはありそうな風貌です。

                    ’62〜’63大洋 一塁手
                    打率.236 20本塁打 73打点 4盗塁



                    登録名は“アグィリー”だったり“アギー”だったりしたアグリー。
                    地味ではありますが、内野ならどこでもこなすユーティリティー・プレイヤーだった。

                    ’62〜’64大洋ー’65〜’66西鉄ー’67〜’68大洋ー’69阪急 内野手
                    打率.261 69本塁打 238打点 11盗塁



                    外野守備の名手として鳴らした平山は、ハワイから来た身長160cmの小兵選手。
                    オールスターにも2度出場。愛称は“フィーバー”。

                    ‘55〜’64広島 外野手
                    打率.229 45本塁打 251打点 160盗塁


                    こんな感じで、今回は’60年代前半の外国人選手メンコをご紹介いたしました。
                     

                    追悼 川上哲治のメンコ・ブロマイド

                    0
                      今回は、先日亡くなった川上哲治を偲び、若かりし日の姿が躍動するメンコ、ブロマイドを一挙にご覧頂きます。
                      突っ込みどころが多々ある品もありますが、今回はあえてコメントは付けません。

                      千葉茂、青田昇とのスリーショットや長嶋茂雄とのツーショット、
                      作り笑いの広岡達朗と収まったメンコなど、興味深いものもございます。

                      では、じっくりお楽しみください。













































                      ご冥福をお祈りいたします。


                       


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